戦後、日本は豊かになった。いただきますと食事の前に手を合わせる意味合いも変化しているのかもしれない。長谷川町子氏が描いた磯野家の食卓と現代との差異について、食文化に詳しい編集・ライターの松浦達也氏が指摘する。
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今年も終戦記念日が近づいてきた。年々、当時の記憶を持つ人は少なくなり、かの大戦は「記憶」から「歴史」へと上書きされようとしている。昭和21年に連載がスタートした新聞マンガを読み返したところ、そこには当時と現代の食事情の違いが浮き彫りにされていた。
1946(昭和21)年4月22日、終戦から6ヶ月後、西日本新聞の関連紙である福岡の地方紙「フクニチ新聞(夕刊フクニチ)」で『サザエさん』は連載をスタートさせた。作者はもちろん長谷川町子。作中には当時の食事情も描かれている。
例えば連載2回め。サザエはラジオから流れる音声をもとに「めあたらしいだいよう食でもつくろかな」と代用食づくりに精を出す。「おいものきりくずやニボシのくずを入れます」のくだりは聞き流すが、「さいごにヌカをいれよくかきまぜます」という音声に「?」となり、4コマめで「ただいまはニワトリのえさについてもうしあげました」とオチがつく。代用食を作るつもりが、鶏のエサを作ってしまっていたという話だ。
長谷川町子は1920(大正9)年佐賀県に生まれ、福岡で育った。九州北部は、その当時にして長く鶏食文化が育まれてきた地域だ。前出の回からは少なくとも九州北部の一部地域では一般家庭で鶏を飼い、えさの配合までしていたことが伺える。
他の回からも、各家庭で鶏を飼っていたという食事情は見て取れる。1947(昭和22)年に描かれた回では、波平自ら「トリゴヤはよほどがんじょうにしておかんと」と庭に鶏小屋を建てながら、「おとなりでもとられたんですって」と心配するサザエと会話する光景も描かれている。
そのほか、波平が「みずたきでもしてくおうや」と生きた鶏を持って帰ってくる回ではサザエが「まにあわせにかごにいれておきましょう」と放っていたら鶏がカゴごと逃げ出すというようなエピソードが描かれている。
この回が実にシュールで、帰宅後に家の廊下でサザエと話す波平のいでたちはスーツにコート。帽子もかぶっていて、左手に革のブリーフケースを提げている。ところが右手には生きた鶏の両足をむんずとつかみ、逆さ吊り状態で鶏を提げている。これから水炊きにするために生きた鶏を持ち帰り、その鶏を家屋内に持ち込むことに抵抗がない。この頃はまだそういう時代だったのだ。
実は長谷川町子は、この当時すでに東京に居を構えていた。『サザエさん』連載開始から1年もたたないうちに東京の出版社から仕事の依頼があり、1946(昭和21年)の暮れに上京していた。
その後、戦後復興が進むにつれて、(特に生きた)鶏の登場頻度は減ってくるが、数年後の1950(昭和25)年にも7月の回では庭でワカメが鶏を追いかけ回す光景が描かれているし、12月にはまたも波平がらみで鶏を食べるシーンが描かれている。
帰宅した波平が「いいにおいだな」「トリのごちそうだな♪♫」とセリフに音符が飛び交うほど上機嫌で食卓につこうとすると、場の雰囲気が妙に暗い。「どうしたんだ?」と波平が聞くとワカメが「うちのニワトリしめたの」と答える。最後のコマでは「シーン」という効果音とともに、お通夜のような雰囲気で磯野家が鶏鍋をつつく光景が描かれている。
それから80年近くが経った現在、都市部では鶏を飼う家庭はほぼ皆無となった。鶏に限らず肉や魚、食卓に上るものがどこからどうやって来たのか、子どもはおろか大人でさえ生産の現場を知らない。だが、磯野家の人々が感じたような複雑な気持ちによって育まれるものもあるのではないか。
当時の磯野家の人々が口にする「いただきます」と、現代社会を生きるわれわれの「いただきます」。その言葉の重みはあまりに違う。