太平洋戦争の激戦地の一つ、フィリピン・レイテ島。同島・ドラグ市の片隅に、現地住民の手で、たった一人の日本兵のために建てられた慰霊碑がある。
祀られているのは京都府出身の山添勇夫陸軍大尉。1937年に召集後、フィリピンに派遣されドラグ市の守備隊長を務めたが、1943年に現地ゲリラとの戦闘で戦死した。32歳だった。
「山添勇夫は地元住民らと親睦を深めるためにスポーツや映画上映を行うほか、食糧不足を補うよう野菜作りを教えるなどしていた。彼らの信頼や尊敬の証しとして、慰霊碑が建てられたようです」
そう語るのは、山添勇夫大尉の曾姪孫(おいの孫)にあたる京都府与謝野町の山添藤真町長。藤真氏が5年前に慰霊碑を訪れた際には、山添勇夫大尉と交流のあった当時のドラグ市長の娘さんと対面できたという。
その慰霊碑は終戦から70年以上経た今でも、地元住民の手により大事に管理されている。
●取材・構成/浅野修三(HEW)
※SAPIO2018年7・8月号