大手スーパーが軒並み苦戦する中、31年間増収を続け、「顧客満足度No. 1」を獲得する人気スーパー「オーケー」。1都3県を中心に112店舗展開する。
そのオーケーの姿勢は徹底している。仕入れ品種を減らしたうえで大量に仕入れて低価格を実現する、他店より高い商品があればその場で値下げする。
こうした取り組みは、今でこそオーケー独自の手法として確立し、好業績を維持しているが、さかのぼればこれは、創業者である飯田勧会長の強い信念と志による“大改革”があったからに他ならない。
飯田会長は、1928年3月、東京・日本橋の酒問屋・岡永商店の、男5人兄弟の三男として誕生。父・紋治郎氏のそばで、商売人として、経営者としての基本や素養を身につけていった。
例えば、紋治郎氏は商売がら酒が好きだったが、兄弟たちは晩酌の際集められ、商売の話を聞かされたという。飯田会長が振り返る。
「父はよく、こう言っていました。『利幅の大きい商売は、どうしても気が大きくなって贅沢になるもんだ。木綿問屋は長続きするよ。薄利だから、生活が質素なんだよ』」
終戦後、海軍兵学校を卒業した飯田会長は当時17才。父親について、兄弟より一足先に、社会に出ることを決意した。その時の父の言葉も、今でもよく覚えているという。
「終戦当時は、経済が統制され、酒問屋ができない時代。東京の焼け野原で父とバラック小屋を建て、自炊しながら今後の仕事について考えたものです。当時は経済統制違反の闇商売が横行し、闇商人は大きな利益を上げていましたけど、父は『法律違反はいけない。楽をして利益を上げても泡のようなもの。そんな商売は、間もなく潰れるよ』と言って、そうした人たちとは頑なに距離を置きました。数年後、統制が解除される頃には、すべて父の言う通りになりました」
統制が解除されると、紋治郎氏は酒問屋を再開。飯田会長も、兄弟と一緒に酒問屋を手伝うようになった。そこでは、売掛金商売の苦労や難しさも味わった。
「得意先に売掛金の回収に伺うと、気持ちよく支払ってくださるかたは稀。『また来てよ』なんて言われて、情けない思いをしたものです」
◆転機となった記事
岡永商店に身を置きながらも、兄弟5人で1つの仕事をしていることに、疑問を感じ始めた頃、ある記事に出会う。
「雑誌『リーダーズ・ダイジェスト』の、『アメリカではスーパーマーケットが花盛り』という記事を見ました。この商売なら、現金商売で、売掛金回収の苦労がなくていいなぁ、と思ったんです。すぐに父に相談したところ、『500万円だけ貸してやるよ。担保は貸さないよ。それでよければやってみな』ということで、スーパーマーケットを始めることにしたんです」