認知症の母(83才)が今も鮮明に覚えているのは、父が急逝したあの日のこと。N記者(54才・女性)が、当時のことを振り返る。
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「大きな血栓が心臓の冠動脈を塞いでいます。お父様は今、大変危機的な状況です」
2012年の12月、父が搬送された救命救急センターで、主治医の説明は確かこんな内容だった。メモ紙に心臓の絵を描き、真ん中に太い冠動脈、そこから血管が枝分かれするあたりにグリグリと血栓が描かれ、“ここが詰まったら絶望的だ”というのは素人の目にも明らかだった。
隣で聞いていた母は顔面蒼白。昼、父の搬送に付き添って来たはずが、私に連絡してきたのが夜8時過ぎ。呆然自失の母から聞き出した、父の搬送経緯はこうだった。
2人で昼食を食べ、ソファでくつろいでいた父が急に「気持ちが悪い、救急車を呼んでくれ」と訴えたという。
「私、救急車の電話番号が何番か忘れちゃって…。そうしたらパパが電話を取り上げて自分で呼んだのよ。お前、鍵閉めて来いよって私に言って、救急車に一緒に乗ったの」と、母。今ひとつ父の様子がわからなかったが、病院到着後の様子は主治医から聞くことができた。
「救急隊に支えられながらもご自身で歩いて私の前まで来られました。“胸が潰れされるように痛い”と繰り返し訴えられ、脂汗も。病状から見ても相当、苦しかったはずです。本当にご立派でした」
最後の言葉はとてもうれしかった。すると母が唐突に、
「で、主人の病気は何なのですか?」と聞いた。「心筋梗塞です」と主治医。
日本人の死因のつねに上位に上がる病名。数時間前、機嫌よく食事していた人を突如、死の淵に立たせるのだ。なんと恐ろしい病だろう。主治医の話に、血のかたまりがゆらゆらと心臓の入口に到達する様子が脳裏に浮かび、両親の穏やかな昼食風景に重なって鳥肌が立った。
搬送から2日後に父は亡くなった。もう回復は望めず、死を待つばかりの数時間には、「今、何を待ってるの?」と、母は呆然と繰り返した。
どんな別れもつらいけれど、衰えた脳にこの急展開は酷だった。認知症の進行にも少なからず影響しただろう。
しかしその一方で、父の臨終やその後1年余り、妄想に苦しんだ独居生活を母は覚えていない。それが幸いだ。4年前にサ高住(サービス付き高齢者向け住宅)に転居し、環境が合ったせいか激しい妄想は消え、記憶障害だけになった。
この数年の間に、愛犬を里子に出したこと、長年認知症で施設に入っていた実姉を見送ったことも、認知症の母の記憶には留まっていない。ところが愛犬を愛おしんで散歩させた日々や実姉の存在は覚えているため、いちいち驚く。私も最近は要領を得て、手短に説明して母の混乱を収められるようになってきた。
でも、不思議なことにあの一大事の直前、父と過ごした最後の昼食の風景を、母は今も克明に語ることができる。
「今日はお肉と三つ葉とうどんがあると言ったら、パパが“よし、オレが作ろう”って、肉うどんを作ったの。小春日和で本当にいい日だった」
そして父を語るときは必ず、「77才で亡くなったの。心筋梗塞でね」と言う。
※女性セブン2018年9月13日号