皇太子時代に“君臨すれども統治せず”という在り方に接した昭和天皇は、明治憲法下で立憲君主であろうとした。だが、二度、切迫した事態により直接行動をとったことがあると戦後、語っている。それは二・二六事件で反乱軍の鎮圧を命じたことと、ポツダム宣言の受諾である。戦後、「象徴天皇」となってからも、昭和天皇はマッカーサーとのトップ会談に計11回も臨んだ。現代史家の秦郁彦氏が解説する。
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昭和天皇が自らの政治センスをフルに働かせたのは、終戦から6年9か月続いた占領期だった。新憲法が成立すると、天皇は「国民統合の象徴」となったが、占領軍の最高司令官マッカーサーと11回にわたるトップ会談をやるなど、先頭に立ってさまざまな交渉を行った。
ある意味で、敗戦は天皇を「解放」したとも言えるだろう。それまで自分の意向をないがしろにしてきた軍部首脳や重臣たちがいなくなり、昭和天皇はのびのびと外交手腕を発揮されたように見える。日本占領の成功を花道に大統領選挙に出馬する予定だったマッカーサーが望んだからでもある。
新憲法には抵触するかもしれないが、占領軍が全権を握る特殊な状況下では、憲法自体が効力を停止していたも同然だ。それに、天皇がリーダーシップを発揮したのは、国民の期待に応えるものでもあった。国民は、終戦の聖断によって一億玉砕を阻止してくれたのは昭和天皇だとわかっていた。その天皇が、こんどは占領軍を相手に日本の利益を守ってくれることを当時の日本人は望んでいたのである。占領軍側も、自分たちの目的を達成するには天皇の権威と政治力が不可欠だと考えていた。