明治維新から150年。政府の近代化政策によって日本列島の均一化が進んだが、いまなお多くの日本人が関東と関西の「断層」を感じている。東京大学史料編纂所教授の本郷和人氏は日本は長らく一つではなかったと指摘する。
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関東と関西がまるで違うのは、当たり前です。日本が昔から一つであったとする「日本観」が作られたのは、明治の御一新の後ですからね。後述しますが、歴史的にみれば、「関西」という呼称は新しく、「上方」と呼ぶ方がしっくりきます。
日本は、朝廷のある畿内が関東というフロンティアへ進出していく形で成立しました。その意味で〈原日本〉の政治、経済、外交の中心は長らく畿内でした。
「関東」の呼称が生まれるきっかけは、天武元年(西暦672年)の「壬申の乱」でした。大友皇子に対して反乱を起こした大海人皇子(後の天武天皇)は、畿内から東国につながる不破の道(東山道)を封鎖して東国で兵を集めました。
律令国家と言っても朝廷が完全に統治できていたのは畿内であり、東国は律令が顧みられることのない弱肉強食の世界で、人々は武装して自衛するしかなかった。そのため兵を集めるには東国が適していたわけです。