父の急死によって認知症の母(83才)を支える立場となった女性セブンのN記者(54才)が、認知症のリアルな姿を綴る。
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認知症はいろいろと難しい。病気の情報はたくさんあるが、実際に認知症の母と向き合えば、情報どおりでないことも多いし、なかなか慣れない不可解な言動を頭で理解しようとすると、つい“生身の母”を見失ってしまうのだ。
◆何がわかり何がわからない? 予測と現実の見極めに悩む
母がアルツハイマー型認知症と診断されたのは5年前。当時、駅からバスで10分のマンションで独居する母を、月2回、駅前の診療所に連れて行くのが私の役割だった。
当初は、母の自宅の最寄り駅から電話をかけ、「今すぐに家を出て、マンションの前からバスに乗って、終点の駅で降りて」と指示していた。
その頃、認知症の母の頭の中で、何がわからなくて何がわかるのか、皆目見当がついていなかった。バス停の場所を覚えているか、小銭が払えるか、不安は尽きなかったが、私も自宅から小1時間かけての遠征だ。そこからバスで母を迎えに行って、戻りのバスで診療所へ、またバスで母を送り届け、最後に自分がバスで駅まで帰って来ると、都合2往復。いつも仕事でいちばん効率のよい最短移動経路を探すのが習慣化している身には、耐えがたい非効率さだ。
しかし、首尾よく駅で会えるのはごくまれ。あるときは駅の手前で下車し、そのまま目的を忘れて書店で雑誌をめくっていたり、交番のお世話になったりしたこともあった。いずれも母の行動を必死に推理し、偶然捜し当てられたのだが、最初の電話を切った瞬間に記憶が消えるときも。駅周辺を捜し回って、もしやと母の家に電話をかけると、
「あらNちゃん久しぶり! どうしたの?」
こうなると効率など吹っ飛び、頭のてっぺんから火を噴きながら母を怒鳴りつけた。
◆認知症になってから好転した母の言動も
試行錯誤の5年。母は私の自宅近くのサ高住に転居し、通院も徒歩圏内になった。食事を食堂に任せるなど生活を小さく整えると、母の激しい妄想は消え、もの忘れだけが残った。支援のある生活の中では、もの忘れは大した障害にならず、母も私もいら立つ場面が激減した。
本当に嬉しいことだが、いまだ心の隅では、認知症の典型的な妄想が魔法のように消えたことに、不信を感じたりもする。愚かな娘心だ。