陽光は晩秋の澄んだ空気を通ってやわらぎ、季節外れの暖かさをもたらしていた。沿道の高知の人々は、天皇皇后両陛下を乗せたお召し車が近づくと一様に手を振った。
両陛下は高知県を訪問(10月27~29日)し、第38回全国豊かな海づくり大会の式典(高知市)に出席された。海づくり大会は、全国植樹祭、国民体育大会と合わせて「三大行幸啓」と呼ばれ、両陛下が大切にされてきたご公務だ。来年に譲位を控え、その最後のお務めを果たされた。
高知市は、とりわけ天皇陛下にとって、76年前の“ある縁”を感じられる場所である。
江戸時代に建造された天守と本丸が現存する全国唯一の高知城。その近くにある、今夏に開館したばかりの複合施設「オーテピア」内の高知みらい科学館に、一匹のヒョウのはく製が展示されている。
その名を、ハチという。
中国・湖北省の赤ちゃんヒョウのハチは、第二次世界大戦下の1941年、高知出身の歩兵二三六連隊(通称、鯨部隊)の成岡正久さんに拾われ、戦地の兵舎で家族同然に育てられた。その後、成岡さんの出動命令を機に、東京の上野動物園に引き取られた。
翌1942年12月6日、その上野動物園を、学習院初等科2年生の皇太子時代の陛下が見学された。
《おりの奥で体を丸めていたハチは、人の気配に気づくとむくっと起き上がり、おりの柵にスタスタと歩み寄りました。するとハチは、殿下の前で“ゴロゴロ”とのどを鳴らし、頭と体を柵にすり寄せたのです。
「おおっ、ハチは皇太子殿下がわかるのか」
何も知らない新聞記者が驚きの声を上げました》(ハート出版『兵隊さんに愛されたヒョウのハチ』祓川学著)
実際は、ハチは陛下の隣にいた東京市長のカーキ色の軍服に反応したのだという。軍服が、離ればなれになった“育ての親”の成岡さんの服と似ていたのだ。その時、動物園のスタッフは「陸軍の軍服を着ていればハチは安心します」という成岡さんの手紙を思い出していたという。陛下は、目の前で甘えるハチの様子をじっと眺めていたそうだ。
戦況が悪化すると、上野動物園でもその影響は避けられない。「かわいそうなぞう」のモデルとして知られる象のトンキーなど、27頭の猛獣が殺処分されることになった。
ハチも例外ではなかった。
子ヒョウの時から人に食べ物を与えられていたハチは、疑うこともなく毒入りの食べ物を口にした。前足と後ろ足を震わせながら、1943年8月18日、ハチは絶命した。成岡さんは終戦後、ハチの亡骸を引き取り、1981年に地元・高知の学習施設に寄贈した。成岡さんは戦後、こんな言葉を残した。
《私たちの青春時代は戦争で明け暮れた。そして勝敗がいずれであろうと、戦争は人類最大の罪悪であり、悲劇であることも身を以って体験した》
ハチを知る地元の人々は、両陛下の今回の高知訪問の際、「オーテピア」を含むよう望んでいたそうだが実現はしなかった。
ヒョウのハチのはく製は、「平和の教材」として語り継がれている。そして、今日も高知の子供たちがハチをじっと眺めている。76年前の、まだ小学生だった、あの日の陛下のように。
※女性セブン2018年11月15日号