美しい女性はいつの時代も男性のみならず女性にとっても憧れの的であった。しかし、「美人」の基準は時代ごとに大きく移ろってきた。日本人の美意識と社会の変遷を貴重な写真とともに考察する。
喜多川歌麿の錦絵『寛政三美人』(1793年作)に代表されるように、江戸時代の美人は細面の瓜実顔で、目が細くつり上がっているのが特徴。その美人の条件は幕末に写真技術が輸入されると大きく変わった。
「“真実を写す”写真で映える陰影のある西洋的な顔立ちが美人とされ、女性の化粧も次第に白塗りから肌色に近い色に塗るように変わっていきました」
そう説明するのは同志社大学大学院社会学研究科教授(比較文化史)で、『明治〈美人〉論メディアは女性をどう変えたか』の著者・佐伯順子氏だ。当時、主に写真の被写体となったのは花柳界の女性だった。
「芸事に通じ、接客術も長けていたため明治美人の代表とされました。また当時の花柳界は今の芸能界のように社会的注目の的でした」(佐伯氏)
そのような背景から、斎藤きち(14歳で芸妓となり、芸事と美貌で「新内明烏のお吉」との評判を得た。それを聞きつけた幕府によりアメリカ総領事ハリスの愛人として派遣され、「唐人お吉」と呼ばれるようになった)、木戸松子、江良加代などの芸者、芸妓が幕末から明治初期の美人として名高かった。
明治を通じて芸者ブームは続き、特に日露戦争後の好景気の中で盛り上がった。