いまや当たり前のものとなっている「ミスコンテスト」。その歴史をひもとくと、日本での“起源”は明治時代に遡る。
明治24(1891)年7月、東京・浅草の「凌雲閣」が主催となって、観光の目玉として有名芸者100人による日本初のミスコンテストを開催。これが近代のミスコンテストの嚆矢であった。
選考方法は、凌雲閣内に有名芸者100人の写真を貼り出し、見学者が投票によって順位を決めるというもの。その総投票数は約4万8000票だった。
「それでも当時は、良家の子女が人前に出たり、世間の話題となることは“はしたない”とされていた。だから美人と称されていた女性の多くは、芸者のような人前に出る職業に就いていた」(村田孝子氏・ポーラ文化研究所シニア研究員)
明治30年代以降に『少女画報』など多くの女学生向けの雑誌が発行され、今でいう「読者モデル」のような美しい女性の写真が掲載された。そこで明治40(1907)年、時事新報社が全国的に女学生、令嬢を対象にした美人コンテストを開催した。この公募には全国から7000人もの応募があったという。
一般人といっても応募したほとんどが裕福な家庭の子女であった。3等に選ばれた土屋ノブ子は受賞をきっかけに広告モデルにも起用された。
「土屋ノブ子の起用は、一般女性が社会へ飛び出す契機となりました」(村田氏)