「ここにはないどこか…」や「より幸せな場所を探す」、というテーマは現在もポップスソングなどでよく用いられる人気のモチーフだ。これは人類にとって普遍の思いでもあるらしく、世界各地で様々な形になってあらわれている。「北朝鮮帰国事業」を、「千年王国」「約束の地」思想という視点で改めて見る必要について、評論家の呉智英氏が解説する。
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友人がヤフーニュース特集(十一月十四日付)のプリントを送ってくれた。この夏、日本に住む脱北者五人が北朝鮮政府に五億円の損害賠償を求め、東京地裁に訴状を提出した、という。この人たちは北朝鮮にだまされて帰国したのだ。もっとも、この訴訟に法的効果は期待できないだろう。それでも世論を喚起する意義はある。
同ニュースにもあったが、来年は在日朝鮮人の帰国開始から六十年になる。そして平成になってから満三十年、天皇の代替りもある。ナショナリズムについての議論が起きるだろう。天皇制をナショナリズムの観点で論じるのは、右側からにしろ左側からにしろおかしくない。しかし、在日朝鮮人の北朝鮮への帰国運動はナショナリズムに似ていて少し違う。これは「約束の地」思想なのではないか。
北朝鮮帰国は一九五九年に始まり、二十年以上続いた。その数約十万人。特に初めの頃は、異常な熱狂ぶりであった。やがて帰国者から北朝鮮の惨状が秘密裏に伝わるようになったが、それが広く知られるのは一九八四年の金元祚『凍土の共和国』からである。
「約束の地」とは、ユダヤ・キリスト教思想に顕著に見られる思想で、祖国を失った民に神が約束してくれた土地という意味だ。モーゼによる「出エジプトExodus(エクソダス)」は、イスラエル建国・移住の際にも語られた。映画『栄光への脱出』も原題はExodusである。これがナショナリズムと違うのは、祖国と民衆のベクトルの差だ。通常のナショナリズムは、民衆が祖国を愛する。約束の地では、祖国が民衆を愛し受け入れる。どんな受け入れ方かは別にしてだが。