【書評】
『いまどきの納骨堂 変わりゆく供養とお墓のカタチ』/井上理津子・著/小学館/1296円
【評者】桜木紫乃(さくらぎ・しの)/1965年北海道生まれ。2002年「雪虫」でオール讀物新人賞を受賞。2007年、同作を収録した『氷平線』でデビュー。2013年『ラブレス』で島清恋愛文学賞、『ホテルローヤル』で直木賞を受賞。近著に『光まで5分』『ふたりぐらし』など。
常々子供たちには「(夫と私どちらか)片方がいるあいだは骨と一緒に暮らすけれども、どっちも死んだらガラポンみたいによく混ぜて、景色のいいところに散骨して」と言っていた。なぜそんなことを言うのかの理由は正直なところ曖昧だったが、本書によって今は何かしらの答えを得たような気分でいる。
私ごとではありますが──先日実家に帰ったら、珍しく仏間のふすまが閉じられていた。死んだ祖父母はそれぞれ寺の檀家総代と新興宗教の熱心な信者だったため、ふたりが亡くなってからも実家の仏壇は畳一畳ぶんでひと部屋占領。実家に帰ったらまずお参り、というのは体に染みついた習慣だったのでその日ばかりは「おや?」と。父は「お参りはもういいんだ」と言う。おやおや? そこで語られたのが「仏壇はもうない」ということだった。海の見える共同墓地にあった墓は、祖父が生前墓じまいしており、その息子は仏壇を解体して塩と酒でお清めをして燃やし「仏壇じまい」をしたという。
「俺らには娘しかいない。こんな大きなものが残ってたら始末に困るだろう」。
父曰く「うちには納骨堂がある。この先はそこが墓代わりだ」。
本書で知った「いまどきの納骨堂」には、屋内の仏壇型・ロッカー型・棚型と、立体駐車場形式の自動搬送式があるという。え、自動搬送式って、呼び出したら目の前に墓が出てくるってこと? と問いながら読み進めると本当にそうだった。静けさと豪華さを併せ持つ施設の裏側には、呼び出しを待つ厨子がずらり。後ろ側では、何千という「待機中の遺骨」が並んでいる。
著者は、ヒアリングの際にさくっと「お宅のお墓、どんな具合ですか?」と訊ね「不覚だった」と記す。お墓の説明には「『家』の事情と、亡くなった親など近しい人の介護、葬儀の話が際限なくついてきた」。
介護と葬儀の前段階である我が家にだって、仏壇と墓にまつわる「いろいろ」が在る。百のケースには百の事情があると痛感しながら、著者は「お墓は『今』の時代を映す鑑だ」という。
何百万もかけた納骨堂があるかと思えば、永代供養の塔、自然に還る「樹木葬」もあり、クルーザーでの散骨もある。女性専用の共同墓を選んだ女性の「わたしはひとりで自由に生きてきたんだから、お墓も自由に選んでいいでしょう?」の問いに、著者のまなざしはひたすら柔らかく静か。
読後、荼毘に付すのも埋葬するのも、思い出を語るのも泣くのも忘れるのも、生きている側のことなのだと気づかされた。死者と遺された者のあいだに交わされた「約束」も、守ることが出来るのは生きている側だった。ああ、だから実家の両親も自分たちが生きていたことを確かめられる「場所」をはっきりさせておきたいのだ。永いお別れの前に、自分が生きていたことを時々でいいから「確かめに」来る約束を──そう考えると、嫁いだ娘に面倒を遺さず、お参りの場所をひとつに絞った父の決断が、妙にありがたくなる。
「あの世」も「この世」も、生きている人間が語るもので、本当に在るのかどうかを断言できるひとはいない。みな、明日どうなるかわからぬ今日を生きている。先祖代々も祖父母までしか遡ることのできない開拓三世としては、この少ない先祖のことを、己が生きている限り思いだし続けたい。それが生者側の「生きる余裕」のバロメーターでもある。
著者の既刊本はどの本をいつ開いても、陽気さに気遣いをまぶした大阪のおばちゃんと話しているようだ。人に体型があるように文章には文体がある。平易な語り口で書かれた言葉のひとつひとつに、慈愛が滲む。本書を開くと深い「赦し」を体感できる。「形態と価格の多寡に、故人と生者のつながりは左右されない」。遺骨をめぐる著者の思いは、このひとことに凝縮されているだろう。
※女性セブン2019年1月31日号