【書評】『私に付け足されるもの』/長嶋有・著/徳間書店/1500円+税
【評者】鴻巣友季子(翻訳家)
わたしたちはコンテクストの海のなかに生きている。どんな行為にも事柄にも存在にも、なにがしかの文脈と意味が付加されてしまうものだ。なにかを「ただあるもの」として純粋に見るということが、わたしたち人間には出来ない。
人の目を通したとたん、希望的観測とか、悲観の先取りとか、うぬぼれとか(「わたしモテてる?」)、いじけとか、そんなものに事物は歪められる。洞察する動物である人間とその洞察の不器用さを、長嶋有は愛情をもって絶妙に描く。
十二編の本短編集に出てくる語り手や主人公には、アラフォーの女性が多い。夫婦の冷戦期をなんとかやり過ごした者、夫婦仲が壊れてしまった者、シングルらしき者、昔の恋愛の傷をまだ少し引きずっている者、次の恋に向かいたい者……。第一編「四十歳」に出てくるこんなフレーズが、各編に通底する、彼女たちのもどかしくも純な思いを表しているのではないか。
「トラやライオンに襲われたいのでなく、物理的に大きな塊のようなそれに、嘘なく、誰のせいでもなく居られ続けたいのだ」
誰の「せい」でそばにいるとか、そういうのはもう御免。彼女たちは純粋な存在と不在にあこがれる。「白竜」という編では、アニメの魔法少女たちに帯同するぬいぐるみのような小動物がそばにいれば、それだけでなんだかいいのに、と思ったりする。「どかない猫」では、触れることがならない猫の純然たる在り方を尊重する。