55才のN記者(女性)は認知症の母(84才)と接する中で、ひどい“もの盗られ妄想”に苦しめられた。そこで学んだのは、高齢者にとりお金は“心の命綱”だということ。「盗られていない」という安心が必要だと学んだという。
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月に1回の定期受診の日のこと。午前中にかかりつけ内科医と大学病院の2か所を歩いて巡るのだが、にぎやかな駅前商店街や、校庭に元気な声が響く中学校の前を通る。母にはほどよい散歩コースだ。
その日も、認知症ならではの同じ話を機嫌よくしゃべりながら歩いていると、不意に後ろから声が掛かった。「あの…」と男性の声だ。私はキッと身を固くした。どんな平和な街にも悪いやつはいるものだ。老婆と中年女の2人連れに用があるとは、怪しい。衰弱気味の更年期だが母を守れるのは私だけだ。
「リュックの口が開いてますよ」。サラリーマン風の中年男性が、私たちを追い越しながらさわやかに教えてくれた。
なんだ…と、私の緊張は一瞬で解けた。たぶん私と同年代。あの人も高齢の親を介護しているのかもしれない。老婆の持ち物に目を留め、親切に声を掛けてくれるなんて…。
私は嬉しくて丁寧にお礼を言ったが、いつも愛想のよい母がなぜか無言だ。
「教えてもらってよかったね。いい人だったね」と、声を掛けても絶句したまま。と、大急ぎで背中のリュックサックを確認し、叫んだのだ。
「お、お金がない!」
久々に聞く母の「お金がない!」だった。母のもの盗られ妄想は6年前、認知症の診断を受けた直後から始まった。
父と共稼ぎで、贅沢や浪費はせず、倹約はしたがお金にうるさく言う人ではなかった母が、鬼の形相で私が母のお金を盗ったと連日罵ったのだ。私への積年の不信感かと、別な勘繰りでも苦しんだ。
もの盗られ妄想というのは、認知症で自分の存在感や生活への不安が募るため、生活基盤の象徴であるお金に執着するのだとケアマネジャーさんから教わった。お金は“心の命綱”のようなものだと。
その教えの通り、サ高住に転居して生活が安定したころから母の妄想はピタリとやんだ。 食事はサ高住内の食堂に頼み、基本の日用品は私が買って届け、母が現金を支払う機会をことごとく排除。母にはコンビニや書店でちょっとした買い物をするための数千円を財布に入れて渡した。
こんな策が功を奏したのだろうと、心底ホッとしていた。最近は持ち物にもすっかり無頓着になり、昔から愛用のリュックには大量のティッシュや新聞のチラシなど、とんちんかんなものばかり。肝心の財布も入っていなかったが、親切な紳士のひと言が、不安を呼び覚ましたようだ。
「ママ、リュックサックに財布入れてなかったよ」
「うそよ!」と、鬼の形相で叫び、その日は2か所の診察でも不機嫌なままだった。
その後、斜め掛けバッグに買い替え、財布も必ず入れるようにした。これなら手元ですぐに確認できるからだが、今度は“心の命綱”が入っているはずのリュックサックの不在に動揺。歩いていても座っていても、数分おきに背中をまさぐる。
そのたびに、「大丈夫、財布はここ。盗られていないよ」と言うのが私の新たな仕事になった。
※女性セブン2019年3月21日号