平成の31年間では数多くのアスリートが輝きを放った。そのなかでもひときわ強い光を放ち、人々の記憶に残る選手のひとりに、「トルネード投法」と呼ばれる独特の投法でメジャーリーグのマウンドに立ち、三振の山を築いた野茂英雄氏(50)の名前が挙がるだろう。日本球界からメジャーリーグへ移籍するには、様々な困難があった。それまで契約していた近鉄バファローズを退団し、1995年にロサンゼルス・ドジャースとの契約にこぎつけたときのエージェント、団野村氏が、MLB移籍への3つの作戦を語った。
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野茂君と初めて会ったのは、彼がメジャー移籍する前年、1994年の春でした。共通の知人を通じてアプローチがあり、野茂君の口から「メジャーでプレーしたい」と聞きました。早速私は日本球界からメジャーへ行く方法を調べ始めました。その過程で浮かび上がったのが、最終的に彼をメジャーに導く「任意引退」という言葉です。
私は日米協定や日米の野球協約を読み返すうちに、この言葉が日本にだけあることに気が付きました。まず日米のコミッショナー事務局へ確認。すると米国では日本の野球協約は適用外で、日本の任意引退はFAと解釈されており、覚書もあることがわかった。これによって「任意引退すれば、国内では最終所属球団が保有権を持つので自由に移籍してプレーはできないが、米国は対象外のためプレーできる」という確信を持ちました。
すぐに米国のエージェントから問い合わせ、「日本の任意引退選手は海外ではプレー可能」という日本のコミッショナーからの書面も残すことができた。これがオールスターの時点。問題はどうやれば任意引退にできるか、それが最大の難関でした。