5月12日、巨人・坂本勇人が開幕からの連続試合出塁を36に伸ばし、1997年の広島・金本知憲を抜き、セ・リーグ新記録を樹立した。しかし、14日の阪神戦で5打席凡退し、記録はストップ。1983年の西武・スティーブの持つ日本記録の40試合には届かなかった。
スティーブは、サンフランシスコ・ジャイアンツ、シカゴ・カブスを経て、1980年に西武に入団。西武在籍6年間で5度の打率3割をマークした選手だ。
坂本の活躍によって、1980年代前半に西武を引っ張った外国人選手に突然、スポットが当たった。当時、スティーブの記録はどう伝えられていたのか。ライターの岡野誠氏が1983年のスポーツ紙を綿密に調査した。
【※1:引用の表記は当時のまま ※2:1983年文脈なら所属や名称は1983年当時のもの:
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〈田淵441号 長島に「あと3」 11号3ラン豪快〉(1983年5月25日付・報知新聞)
〈田淵“奇縁”連発 王手だ 長島の444号 昨年も同じ日、同じ阪急から12、13号〉(1983年5月26日付・サンケイスポーツ)
〈V砲だ 記念444号田淵 大卒アーチスト頂点 並んだゾ 長島さん〉(1983年5月27日付・スポーツニッポン)
西武・スティーブが連続試合出塁を続けていた1983年5月下旬、同僚・田淵幸一は通算本塁打数で長嶋茂雄に迫っており、複数のスポーツ紙で1面を飾っていた――。
当時のパ・リーグはメディアに取り上げられる機会が少なかった印象があるが、前年初の日本一に輝いた西武の試合は日によって違いはあれど、スポーツ紙で1ページの3分の2から4分の3ページほど割かれており、1面に躍り出る日もあった。
それならば、スティーブの記録も大々的に報道されていたのではないか――と紙面を丹念に探ってみた。