早朝の名古屋市中央卸売市場。海の男たちの“戦場”に、一輪の美しい花が咲いていた。森朝奈さん、32歳。鮮魚卸・小売り「寿商店」を営む父親を継ぐべく修業している“魚屋の娘”だ。
毎朝5時頃から市場に出向き、仕入れやゴミ出し、運搬等の作業を行なう。その後は自社が経営する飲食店に戻り、魚を捌いて、各店舗の仕込み作業や発注作業。昼は店のランチを手伝い、夜は人手不足店舗のフォローに入る。休む間もない毎日だ。
朝奈さんは大学卒業後、すぐに後継ぎになったわけではない。最初に入社したのはIT大手の楽天だった。楽天に出店している店舗(ECサイト)のコンサル業務を担当して家業に活かしたかったからだが、意に反して配属されたのは秘書業務。それでも仕事の傍らECの勉強を続けていたが、2011年、父親が体調を崩したことをきっかけにUターンを決意した。ただ、未経験での転職に「不安しかなかった」と語る。
「お店に関してはアルバイトの子よりも慣れてないし、社長の娘、2代目というのは世間的にあまり良いイメージがない。特に漁業の職人の世界は厳しくて、“経験もないくせに”とよく言われました。だからできることからやって信頼を得ていこうと。トイレ掃除や、お客様の吐瀉物の片付けとか、誰もやりたがらない仕事を積極的にやりました」
直接魚に関わる仕事をするようになったのはUターンから2年程経ってから。しかしそれも一筋縄ではいかなかった。
「魚の捌き方など、社長(父親)が何も教えてくれないんです。あくまで私の想像ですけど、昔から“男社会だし、娘に魚屋の仕事はやらせたくない”と言っていましたから。でも従業員さんには教えているので、それを横で聞いて、盗んで覚えました。市場へも社長と一緒に起きて勝手についていきましたね」
自分は間違っていない、これは会社に必要だと思ったことはやり続けて成果を出す。「結果を出すことが、認めてもらう第一歩だと思った」と語る。楽天時代の知識を活かし、オンライン受発注システムの導入、通販事業、SNSの活用など、次々と新しい施策を打っていった。
「一番大きいのは通販事業ですね。社長はネットはよく分からんという感じでしたが、私なりの販路開拓、商品開発を行ないました。例えば鯛やブリなどの魚を丸ごとはネットでは買ってもらいにくい。でも食べやすい鍋セットに加工すれば買ってもらえる。加工した分、少しは単価を上げられるから儲けも出ます。そうして事業として利益も出せるようになりました」
入社した時に2店舗しかなかった店は、現在12店舗にまで拡大。「父親のやる気のおかげ」と謙遜するが、彼女が与えた影響は決して小さくない。そもそも後継ぎを目指したきっかけは何だったのか。
「幼稚園の頃、社会科見学で父が働いていたスーパーの魚屋さんに行ったんです。大きなマグロを捌く父を見て、みんな“すげー、格好いい!”って言ってくれて。やっぱりお父さんは格好いいんだって誇らしく思い、そこから私は後継ぎになると思い続けていました。
いま実際に後継ぎになり、表面的なものしか見えなかったものが、苦しい部分も見えてきた。そうして戦いながら今まで支えてくれていたんだと思うと、早く私が一人前になって、少しでも父に楽させてあげたい思いがあります」
父親思いの娘は、今日も父と市場に出向いている。
撮影■本誌・藤岡雅樹 取材・文■斉藤裕子
※週刊ポスト2019年6月28日号