絶えず戦があった戦国時代は、人間だけでなく、猫にとっても受難の時代だったという。織田信長と豊臣秀吉が下した猫にかかわる2つの命令に注目。のんびり過ごしていた猫に忍び寄る、命の危機とは──。
「猫好きの人にはかなり残酷な話になりますが、戦国大名のひとり、織田信長は“ペット”の鷹に、エサとして猫を与えていたとされています」
そんな衝撃的な話を教えてくれたのは、歴史作家の桐野作人さんだ。戦国時代、戦国武将の間では鷹を使ってウサギやウズラなどの鳥類を捕まえる“鷹狩り”が流行した。なかでも、織田信長は相当ハマっていたようで、暇さえあれば鷹狩りに出かけていたという。
「信長の鷹好きは有名で、信長との仲を深めたい大名たちは、外交手段のひとつとして、鷹や鷹のヒナを献上していました。『信長公記』(巻十三)によると、相模(現在の神奈川県)の戦国大名・北条氏政からは一度に13羽もの鷹が贈られたとの記述もあります。そのため、信長が暮らす安土城には常時、20~30羽の鷹がいたといわれています」(桐野さん・以下同)
そんなにも多くの鷹を飼っていると、問題となるのがエサだ。鷹は生き餌を好むため、目をつけられたのが猫やニワトリなどだったという。
奈良県・興福寺の僧侶・長実房英俊らによる『多聞院日記』には、当時の様子が次のように記述されている。
『奈良中の猫・ニワトリを安土から捕獲に来るというので、僧坊中へみんなが隠した。鷹のエサにするためだという』
安土とは、信長の居城・安土城があった城下町なので、“信長からの命令”で奈良中の猫が捕獲されようとしていたことがわかる。
なぜ奈良の愛猫家たちが、興福寺に猫を隠しにきたかというと、当時、興福寺など大きな寺社は、武家など外部からの侵入や介入を拒否できる“聖域”だったからだ。
「いわゆる“治外法権”の場所である興福寺には、天下の信長も手を出せない。自分たちの猫が連れていかれないように、かくまってもらおうと大勢の人が興福寺に猫を連れていったのでしょう。すでにこの頃には、猫はネズミ捕りとしてだけでなく、ペットに近い存在になっていたのかもしれませんね」
猫の受難は、豊臣秀吉の時代も続く。天正20(1592)年2月10日の『多聞院日記』によると、『奈良中の狛を取り寄せられるという。皮を剥いで槍の鞘の用ではないかという。なんと不憫であることか』と、再び嘆いている。
「“狛”とは高麗犬に代表される犬のことですが、猫なども含まれていたとみられています。戦で使う槍の穂先がむき出しだと危険なので、その穂先につける鞘を、動物の皮で作るから、奈良中の犬猫を集めろというわけです」
政治的な思惑や戦により、迫害を受けた猫たち。同じ過ちを繰り返さないためにも、このような歴史があったことを知っておきたい。
※女性セブン2019年8月15日号