放送作家、タレント、演芸評論家で立川流の「立川藤志楼」として高座にもあがる高田文夫が『週刊ポスト』で連載するエッセイ「笑刊ポスト」。今回は、高田氏が初めて関西のお笑いになじんだ『てなもんや三度笠』の思い出と、それを今見られる幸せについて語る。
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連日テレビでお家騒動、吉本興業の笑えぬ「吉本新喜劇」をみせられているのでウンザリ。昔はよかったなあなぞと爺ぃのように想い返せば、我々東京っ子はいつから浪花風味の笑いになじんだのだろうか。やっぱりあれだ、「あたり前田のクラッカー」。
そうそう“雲といっしょにあの山越えて ゆけば街道は日本晴れ”思わず口ずさんだのは60代と70代。伝説ともいえる日曜夜6時からの30分公開放送バラエティ『てなもんや三度笠』である。よござんしたねぇ、渡世人・あんかけの時次郎(藤田まこと)と小坊主・珍念(白木みのる)が全国を旅しながら騒動にまきこまれていく爆笑時代劇。1962年(昭和37年)から1968年(昭和43年)に全309回放送されている。私が14歳から20歳、「お笑い」に多感で最も敏感で、なんでも受け入れた時代でもある。
余談ですが、この時代、“笑い”にとっては最も豊かな時代で、6時からがこの『てなもんや』で大阪の笑いを浴び、6時30分からは『シャボン玉ホリデー』で、東京のミュージシャンでもあったアカ抜けたクレージーキャッツ。そして私は特に作者の青島幸男のギャグにその名の通り狂ったように笑った。
『てなもんや』は大阪発ABCホールの客前で、生放送と同じように一発勝負で録画しているのが凄い。カメラはたったの三台で編集無しのカット割り。ドリフの『全員集合』のずっと前に、セットをこわす屋台くずしやらドカーンと大砲をぶっぱなしたりしている。