終戦から70有余年。旧日本軍人は連合国から「戦犯」として裁かれた。しかし──そのなかには、敵国からも尊敬の念を抱かれた男たちがいた。立場を超えて「畏怖」の対象となった軍人たちの誇り高き足跡を辿る(記事中の肩書きは最終階級)。
大戦時の奮戦ぶりが語り継がれ、ロナルド・レーガン米大統領からホワイトハウスに掲揚された星条旗を贈られるほど米国民の尊敬を集めたのが、藤田信雄中尉である。
1942年9月9日の夜明け、密かにオレゴン州の沖合に入った二五潜水艦から、小型機が飛び立った。巨大な山火事を起こして米国を混乱に陥れるため、藤田中尉と奥田省二・二飛曹はたった一機の水上偵察機で米本土に侵入し、大森林に計120kgの焼夷弾を投下したのである。実はこの攻撃こそ、現在にいたる米国の歴史の中で、ただ一度の本土空襲だった。
1962年、藤田中尉はオレゴン州ブルッキングス市のアゼリア祭りに招待され、初めて米国の地を踏んだ。
〈米国は開国以来、未だかつて外敵の侵入を許したことがありません。太平洋戦争において貴殿は、この歴史的な記録を破って単機でよく、米軍の厳重なレーダー網をかいくぐり、米本土に侵入し、爆弾を投下致しました。貴殿のこの勇気ある行動は敵ながら実に天晴れであると思います〉
藤田中尉の評伝『アメリカ本土を爆撃した男』(倉田耕一・著、毎日ワンズ刊)に掲載されたブルッキングス市・青年会議所からの手紙の一節である。
また、後にレーガン大統領から讃辞を受けたのは、その戦果のためだけではなかった。アゼリア祭りでの歓迎に応えるため、藤田は電線会社の工場で働きながらコツコツと貯金し、ブルッキングス市の高校生たちを日本へ招待したのだ。レーガン大統領の讃辞は、藤田の高潔な人柄と誠実さを称えるものであった。
※週刊ポスト2019年8月16・23日号