現在、政治家はヤクザと交流どころか、会うだけで議員生命を失いかねない。だが、かつては密接に結びついていた時代があった。田中角栄、宇野宗佑ほか歴代首相が頼ったのが、山口組きっての武闘派・柳川組を率いて、「殺しの柳川」として恐れられた柳川次郎(1991年没)である。ジャーナリスト竹中明洋氏が綴る。
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ベルリンの壁が崩壊し、世界情勢も激動していた1989年、自民党は難局にあった。前年に発覚したリクルート事件によって当時首相の竹下登が辞任に追い込まれていた。後任選びは、ポスト竹下と目されていた安倍晋太郎や宮澤喜一らが軒並みリクルート事件に関与していたため難航した。
結局、お鉢が回ってきたのは、竹下内閣の外相で、中曽根派ナンバー2だった宇野宗佑となった。知名度には乏しいが、クリーンなイメージがある宇野ならこの年7月の参院選を乗り切れるのではないか。そんな思惑も党内にはあった。
しかし、宇野が首相に就任するや、神楽坂の芸妓との女性スキャンダルを「サンデー毎日」に報じられてしまう。
「もし愛人になってくれたらこれだけ出す」
宇野が指三本(30万円)を示して愛人となるよう求めたという芸妓本人の告発は政権を直撃し、参院選でも結党以来初めての過半数割れとなる歴史的な惨敗をした。69日間の短命政権に終わった。永田町の裏事情をよく知る政界フィクサーがこの時の舞台裏を明かしてくれた。
「宇野さんが辞める原因となった相手は神楽坂の芸妓ですが、これとは別に祇園に女がいたんです。むしろこっちが本命でした。宇野さんが総理になるにあたり、これを隠さないといけないということになり、それを柳川さんに相談したんです。柳川さんは『分かった』とだけ言って、京都の現役組長と相談して女をしばらく韓国に匿ってくれた。結局、神楽坂の芸妓との一件が報道されたのでこの工作は意味がなくなってしまったわけですが、柳川さんたちはビタ一文取らずに素晴らしい手際の良さでした」
政治家といえば、田中角栄とも関わりがあった。これはあるジャーナリストの証言である。
「ロッキード事件の裁判をやっている最中に田中の秘書の早坂茂三から頼まれて、早坂と柳川の会食をセットしたことがある。当時、田中はいろんなややこしいところから目白台の自宅に街宣をかけられて大変な状況になっていたので、その対応を相談するためだった。当時は右翼の親玉であるはずの児玉誉士夫ですら、右翼青年にセスナ機で自宅に突っ込まれるくらいだったから」