9月14、15日の2日間、千葉県の袖ケ浦海浜公園で開催の『氣志團万博2019』。2日目の17時から田原俊彦、18時30分から新しい地図の稲垣吾郎、草なぎ剛、香取慎吾が登場。ジャニーズ事務所で一時代を築き、独立した者たちの共演はあるか。著書『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)で、テレビ史やアイドル史を多角的に分析している芸能研究家・ライターの岡野誠氏が『1994年のジャニーズ事務所』を振り返る。
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1980年以降のジャニーズ事務所を2つに区切るならば、1994年が大きな分岐点になる。
1979年『3年B組金八先生』(TBS系)の生徒役に田原俊彦、近藤真彦、野村義男が選ばれ、1980年6月に田原が『哀愁でいと』、12月に近藤が『スニーカーぶる~す』でデビュー。以降、事務所は黄金時代を築き、現在まで隆盛が続いている。
しかし、この40年間で勢いの弱まった時期もあった。
1989年から1990年にかけて、昭和のテレビ界を牽引してきた歌番組『ザ・ベストテン』(TBS系)、『歌のトップテン』(日本テレビ系)、『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)が終了。歌番組を中心に売り出してきた事務所にとって、戦略を変えなければ生き残れない時代に突入した。そんな背景の中、1980年代の少年隊や光GENJIのように最初から爆発的に売れたわけではなかった1991年デビューのSMAPは、バラエティにも挑戦していった。
その花が目に見える形で開くのは、1994年である。
まず、当時の事務所の状況を振り返ってみよう。トップタレントは年齢や実績から考えて、32歳の田原俊彦だった。前年まで7年連続で連続ドラマに主演し、1992年にはドラマ『逃亡者』(フジテレビ系)の主題歌『雨が叫んでいる』がオリコントップテン入り。30代のジャニーズ事務所所属の歌手で初の出来事だったと思われる。その田原が、33歳を迎えた翌日の3月1日に独立する。当時、30歳を超えて事務所に残っているタレントは稀有であり、不思議なことではなかった。