【書評】『モンスーン』/ピョン・ヘヨン・著 姜信子・訳/白水社/2000円+税
【評者】鴻巣友季子(翻訳家)
地獄とはどんな所か? 劫火が燃え盛る阿鼻叫喚の巷だろうか? 九篇から成る短編集『モンスーン』に描かれている地獄は、少なくともそれとは異なるものである。すばらしい日本語で届けてくれた訳者は、「その恐怖は、誰もが実は知っている、感じている」ものだと表現する。どの物語も日々の生活と完全に地続きだ。地続きだから怖いのだ。
とくに「夜の求愛」を含む七篇のテーマは「同一性の地獄」だという。つまり、砂を噛むような同じことが延々と反復される日常の腐食力である。
「観光バスに乗られますか?」は、KとSというふたりの男が重くて汚い袋の配達を上司から指示される。目的地は後からメールで伝える。袋は絶対開けてはいけない、と。彼らはタクシー、観光バス、市外バスと乗り継いで……。『ゴドーを待ちながら』のふたりを髣髴させる。
「散策」は臨月の妻の元へ帰ろうとする夫が日常の亀裂に迷いこむ。「カンヅメ工場」では缶詰の密封という同じ作業を繰り返す工員が、どす黒い“変化”を夢想する。「同一の昼食」は毎日コピーしたようなランチ定食をとる複写・製本店の主人がふと疑問を……。