10月22日、皇居・宮殿の正殿「松の間」にて、新天皇陛下が即位を国内外に宣明される「即位礼正殿(せいでん)の儀」が行われる。国内外から招待された賓客約2500人は、松の間の前に広がる1450余坪の中庭(ちゅうてい)を取り囲むように並び、その儀式の様子を見守ることになる。
テレビ中継で儀式を見ていると、その中庭の南東の角に、巨大な丸い「水盤」があることに気づくだろう。水盤とは、庭など建築物の一角に置かれる底の浅い花器や容器のことで、水をたたえることで、景観をよくしたり、涼しさを演出したりするもの。その水盤は、回廊に並ぶ賓客のすぐ前で、白い大理石の台座の上で厳かにたたずんでいる。
新著『最後の秘境 皇居の歩き方』の中で宮殿の奥に秘められた数々の謎に言及している、文筆家で歴史探訪家の竹内正浩さんが、水盤の由来について語る。
「その水盤は青銅製で、非常に歴史のあるものです。かつて加藤清正が徳川家康に献上したものだと伝えられています」
勇猛果敢な戦国武将で、槍の名手として知られた加藤清正は、豊臣秀吉に仕え、文禄元年(1592年)からの「文禄・慶長の役」で朝鮮に出兵。青銅製の丸い水盤は、その時に朝鮮から持ち帰ったものだとされる。秀吉の没後、清正は関ヶ原の戦いで東軍・徳川家康について戦い、江戸幕府の幕藩体制の中で、熊本藩主となった。築城の才能もあった清正は、江戸城の築城にも携わっている。竹内さんが続ける。
「水盤には、清正にも劣らぬほど、戦火を潜り抜けてきた歴史があります。水盤はもともと宮城(現在の皇居)にあった明治宮殿(明治21年落成)の宮中宴会場に当たる豊明殿の前庭中央に置かれていました。水盤の真ん中から、勢いよく噴水が上がり、水盤の周囲は小さな池になっていました。
しかし、太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)5月26日未明の大空襲で、懸命の消火作業にもかかわらず、明治宮殿は焼失。消火作業にあたった警視庁特別消防隊や守衛隊などから計34人もの殉職者が出ました。死者は、清正の水盤があった噴水池付近に多かったそうです」
このように、宮城宮殿も、都内のほかの地域と同様に猛烈な戦火のなかにあったということを知る人は果たしてどれくらいいるだろうか。そうした皇居の歴史を、江戸の昔から見守ってきた清正の水盤は、現在、新たなる歴史を刻む天皇陛下の決意を、中庭の片隅で静かに聞いている。