徳川将軍家の居城として、明治維新の舞台として、太平洋戦争時の大本営として、戦後日本を見守る象徴として、400年以上にわたって日本の歴史の中心だった奇跡の場所・皇居。即位の礼で今一度注目が集まる皇居の「謎」に迫る。
皇居前広場に立つと、二重橋の奥にそびえる伏見櫓。たびたび「皇居内で最も美しい櫓」と紹介されるこの楼閣は別名「月見櫓」とも呼ばれ、高さは13.4mにも及び、3代将軍徳川家光の時代である寛永5年(1628)に、廃城となっていた京都郊外の伏見城を解体して移築したものだと伝えられている。
真っ白な外観からは想像もつかないが、明治維新までは徳川家と因縁の深い「血染めの畳」が保管されていたという。
歴史探訪家で『最後の秘境 皇居の歩き方』著者の竹内正浩さんが解説する。
「その“血”の主は、江戸幕府を開いた徳川家康の重臣で、伏見城の城代だった鳥居元忠やその家臣たちのものといわれています」
慶長5年(1600)、元忠は、関ヶ原の合戦に向かう東軍・家康の命を受け、伏見城に籠城し、西軍・石田三成に味方する大軍を迎え撃つ。関ヶ原の合戦の前哨戦として世に名高い「伏見城の戦い」である。
約1か月にも及ぶ籠城の末、元忠をはじめ徳川軍約800人は討ち死にして落城。しかし、元忠の身を挺した奮戦で西軍が足止めされたことにより、東軍は天下分け目の戦いを制したとされる。元忠の命をも賭した忠義心が、江戸幕府の礎になった。
「徳川家は元忠の忠義に心を打たれ、家康の孫・家光は血染めの畳を江戸城に運び、伏見櫓の階上に保管したといわれています」(竹内さん)
江戸城において伏見櫓は、「西国諸国への警戒を怠るな」という徳川一族代々の戒めの象徴だったのではないだろうか。
明治維新後、血染めの畳は元忠を祀る精忠神社(栃木県壬生町)に移して埋められ、現在も「畳塚」として残されている。
※女性セブン2019年11月7・14日号