今年のドラフトでは、佐々木朗希(大船渡)が4球団、と奥川恭伸(星陵)が3球団から指名され、それぞれロッテとヤクルトが交渉権を獲得した。過去にも同じように2人の注目選手がドラフト指名を分け合う例があった。
1984年ドラフトでは、東京六大学で圧倒的な強さを誇った明大の投打の柱が目玉となった。4番の広澤克実が3球団(ヤクルト、日本ハム、西武)、エースの竹田光訓も3球団(大洋、巨人、中日)が指名した。
ヤクルトに指名された広澤は黄金時代の主砲に育った。プロ19年間で1736安打、306本塁打、985打点の成績を残し、FAで移籍した巨人、阪神でも4番を任された。一方、大洋が指名した竹田は2年目にプロで1勝しかできなかった。大洋に3年間在籍後、韓国のサムスンで2年間プレー。その後大洋で打撃投手を経て、球団職員となり、現在は編成部スカウトを担当している。広澤氏はルーキー当時をこう振り返る。
「1月15日からの自主トレが始まると、プロの練習についていくこと、環境に慣れることで一杯一杯でしたね。当時のヤクルトは米国(ユマ)での生き残りをかけた1か月に及ぶユマキャンプでしたから、同期新人を気にしている余裕なんてなかった。1年目に竹田がいる大洋とのオープン戦が近づいた時にマスコミが少し騒いだが、気にならなかった。ケガをした時などは友人として心配しましたが、ライバルという意識は頭になかった。
プロでは40歳の若松(勉)さんがいたり、結婚して子供がいる人と一緒にやるというのが驚きで、その環境に慣れるので大変でした。プロ野球という狭き門があり、そのプロで活躍するためにはさらに狭き門がある。高校や大学のライバルが揃って活躍することのほうが難しいんじゃないですかね」
佐々木と奥川はどんなプロ人生を歩むのだろう。