今年のドラフトでは、佐々木朗希(大船渡)が4球団、と奥川恭伸(星陵)が3球団から指名され、それぞれロッテとヤクルトが交渉権を獲得した。くじ引きに注目が集まりがちだが、その後に指名される「外れ1位」は、最初に指名された選手をどこまで意識するのだろうか。
1985年は甲子園を沸かせたPL学園のKKコンビ(桑田真澄、清原和博)が波乱のドラフトを演出した。早大進学を公言していた桑田と、巨人志望の清原。しかし、フタを開けてみると巨人の1位指名は桑田。これが単独指名となり、清原の目から涙があふれた。清原は6球団(西武、近鉄、南海、日本ハム、阪神、中日)から指名され、西武が交渉権を得た。
このドラフトで外れ1位として阪神に指名されたのが、後に松井(秀喜)キラーとして活躍する遠山奨志(八代第一)だった。KKの陰に隠れてはいたが、高校通算69勝3敗ノーヒットノーラン11回の左腕で、打者としても通算35本塁打の“二刀流高校生”として注目されていた。
遠山は1年目からローテーション入りし、8勝を挙げた。しかし、その後は故障などもあって低迷が続き、1990年にロッテへトレード。ロッテでは打者に転向したが、1998年から投手として阪神に復帰。翌年、野村克也監督が就任すると、サイドスローに転向して松井キラーとなった。阪神のコーチを経て野球評論家をしている遠山氏は、自身の原点であるドラフトをこう振り返る。
「僕はプロ志望ではなく、社会人チーム(本田技研熊本)に内定していた。だからKKがどこに指名されるかも傍観者的な立場でした。何球団かのスカウトが「指名する」と声を掛けてくれていたが、そんな口約束を信じていなかった。だからKKを意識したとか、ライバル視したことは一度もありません。
正直な話、プロ1年目は自分のことで精一杯だったから、他人のことなど考える余裕はなかった。マスコミやファンはすぐにライバル関係をつくりたがるが、まずはチーム内での競争ですからね。あの先輩よりいい成績を残さないといけない。そこを勝ち取らないと一軍に残れないわけです。
2年目以降はケガに悩みましたが、打者に転向したり、サイドスローにしたのも、どうにかして試合に出たいという思いから。その頃はどのような形でもいいので、好きな野球を1日でも、1年でもやりたかったですね。
高校時代の成績なんて、ほとんど意味が無い。レベルの高い甲子園の成績ならともかく、弱いチームとの練習試合での私のノーヒットノーラン11回や、通算本塁打35本なんて、プロで活躍できるかどうかの参考にはなりません」