日本の高度経済成長を牽引した「昭和の名経営者」と言えば、松下幸之助、本田宗一郎、小倉昌男などが思い浮かぶ。一方、彼らと肩を並べるほどの成功を収めながら、毀誉褒貶相半ばする人たちがいる。リクルート創業者の江副浩正氏もその1人だ。田原総一朗氏(ジャーナリスト)が語る。
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新聞や雑誌を買うのは、政治・経済やスポーツ、芸能などのニュースや情報を読むためで、広告は求めてないのについてくる雑音のようなものでしかない。だが、彼は「広告こそニュースであり情報だ」と捉え、広告しか載っていない雑誌や本を作ってしまった。リクルートを創業した江副浩正による発想の転換である。
江副は東京大学の新聞部出身。普通は編集部員を目指すのに、彼は営業部員になった。そこで新聞に就職活動用の会社説明会の告知広告を載せたところ、これが受けた。そのまま起業し成功を収めた江副は、日本で初めての“ベンチャー起業家”だった。江副はまた、「社員がすべて経営者である」という考え方で有能な社員を次々育てた。
しかし、旧来型の産業モデルから抜け出せない日本の財界は、リクルートを「隙間産業」と蔑み、江副を「虚業家」と呼んだ。
NTTの民営化で民間企業も通信事業に参入できるようになった際、江副は第二電電(第二種通信電気事業、後のKDDI)への参加を試みるが、稲盛和夫(京セラ創業者)にすげなく断わられた。江副はそのことに深く傷ついたという。
それをコンプレックスとした江副は、不動産事業(リクルートコスモス)にのめり込み、その未公開株を政財官の大物たちに譲渡していった。
これが贈賄とみなされたのが、1988年に発覚したリクルート事件だった。譲渡リストに閣僚らが名を連ねた竹下登内閣は退陣に追い込まれ、江副も贈賄容疑で逮捕された。リクルート会長の座もこのとき、追われた。