【書評】『サブリナ』/ニック・ドルナソ・著/藤井光・訳/早川書房/3600円+税
【評者】鴻巣友季子(翻訳家)
欧米には、アメリカンコミックから派生したグラフィック・ノベルという文芸コミックがある。本書はその一つの頂点と言えるだろう。昨年は、世界最高峰の文学賞ブッカー賞の最終候補に、コミックとして初めて選出された傑作。
シカゴに住む二十代の女性「サブリナ」が、仕事帰りに忽然と姿を消す。手がかりがつかめないまま日が経ち、婚約者「テディ」は不安に耐えきれなくなって、コロラドに住む旧知の「カルヴィン」の元に身を寄せる。彼は空軍勤務で、最近、家族間のすれ違いから、妻が娘をつれて出ていったばかりだ。テディはぬいぐるみや玩具でいっぱいの子供部屋に居候する。
本作の成功の鍵は、「距離感」にもあると思う。あまりに残虐な事件と、それに続いてネットに浮上するフェイクニュースや国家陰謀説、いわれなき脅迫やストーキング、事件の政治的利用……。これらの禍々しい出来事を描く主な視点人物は、サブリナの家族はおろか、恋人ですらなく、さして親しくない友人のカルヴィンなのだ。彼は友人の心の荒廃を淡々と受け止め、自らも理不尽な攻撃の標的にされながら、孤独のなかで再生の端緒を探る。
カルヴィンは友人を決して突き放さない。以前、シャルリ・エブド襲撃事件生存者の危機と蘇生を追った『私が「軽さ」を取り戻すまで』というフランスのコミックを本欄で紹介したが、その立ち直りの過程にも、家族のみならず友人の存在が大きく寄与していたことを思う。
女性の胸などを強調する日本の漫画からすると、本作の絵柄はむしろ特異に映るかもしれない。サブリナは短髪で、体つきも男性と変わらない。女性らしさのアイコンである「困り眉」や、長い睫毛、大きな目が描かれることもない。ほかの人物もみな、黒点のような小さな目をして、ほとんど表情を変えない。なのに、能の面が雄弁に感情を表すように、彼らの怒りや悲しみがしんしんと伝わってくる。静謐な爆弾だ。ぜひ読んでほしい。
※週刊ポスト2019年11月22日号