プロ野球契約更改の季節がやってきた。1年の評価が金額で示されるとあって禍根を残すこともしばしば。グラウンドの外にはドロ臭い「年俸交渉」の球史がある。(文中敬称略)
1960年代から一軍で活躍した巨人V9 時代のエース・中村稔が明かす。
「保留にしたことは何度もあるが、その日のうちに決着をつけることがほとんどだった。V9 の1年目(1965年)も、20勝4敗だったのに提示額は微増だったので、散歩してお茶を飲んでから事務所に帰ると、球団も少し額を上げてくれた。徹底抗戦というよりも、お互いに顔を立てるような感じで判を押していましたね」
そんな日本流の“ファジーさ”が納得できなかったのが外国人選手だった。
「1973年オフ、阪神の助っ人・マックファーデンが、球界で初めて『年俸調停制度』を利用して、調停委員会に諮られました。本人の希望額900万円に対し、球団の提示は600万円。両者は折り合わず、マックファーデンは契約更新せずに退団した」(在阪スポーツ紙デスク)
当時、話題を呼んだのが、ヤクルト入団1年目(1971年)の若松勉だ。
「交渉の席に奥さん同伴で現われたのです。社会人時代に結婚した夫人は、会社の経理担当だったので数字に強かった。口下手な若松に代わり、夫人が電卓を片手に丁々発止。大幅な年俸増を勝ち取った」(スポーツ紙編集委員)
今では当たり前になりつつある代理人だが、その“元祖”が若松夫人だったとは。
※週刊ポスト2019年12月6日号