プロ野球の契約更改の季節がやってきた。今年は中日の祖父江大輔(32)が、「保留第1号」となるなど、選手と球団の間で主張がぶつかり合う。(文中敬称略)
年俸アップを求めて“銭闘”する選手が増え始めたのは、1980年代以降のこと。
その一人が「空白の一日」騒動を経て巨人に入団した江川卓だ。3年目の1981年に最多勝を獲得するも、期待外れの年俸提示だったため、「世間のイメージというものは、契約更改にも影響するんですかね」と恨み言を口にした。
在阪スポーツ紙デスクが「当時、最も更改を粘ることで知られていた」と挙げるのが、カズ山本(山本和範)だ。
「南海時代は、交渉を中断してミナミの町をブラブラした後にサインしたことがあった。ダイエー時代も3度の交渉に臨み、“僕らが夢を作りますから、僕たちにも夢をください”と直訴して100万円アップを勝ち取った」(同前)
阪神の元球団社長・野崎勝義は、球団側にも対策マニュアルがあったと明かす。
「よく揉める選手への対応は、査定担当の前任者からの引き継ぎ事項になっていた。ゴネると分かっている選手に対し、最初は提示額を低くして幅を持たせていた球団もあった」
1986年オフには、初の1億円プレーヤーが誕生した。2年連続の三冠王を手土産にロッテから中日に移籍した落合博満。そして西武の黄金期を支えたエース・東尾修だ。
「東尾さんは球団から9900万円の提示を受け、当時の坂井保之・球団代表に対し“残り100万円は自腹で出してでも、最初の1億円投手と呼ばれたい”と直訴し大台に乗りました」(スポーツ紙編集委員)
※週刊ポスト2019年12月6日号