映画史・時代劇研究家の春日太一氏がつづった週刊ポスト連載『役者は言葉でできている』。今回は、俳優・三田村邦彦がそのキャリアをスタートさせたころ、倉本聰氏が脚本を書いたドラマに出演した駆け出し時代の思い出について語った言葉をお届けする。
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三田村邦彦は一九七三年に劇団青俳に入団して俳優としてのキャリアをスタートしている。
「両親には大学受験の下見に行きたいと言って、高校二年の夏休みに故郷の新潟から東京に出ました。でも、大学の下見は一切せずに文学座や俳優座といった劇団を見て歩いたんです。
それで、まず一年目は親には予備校に行くと言って、タレントセンターみたいな所で基礎を学びました。そこは特待生制度があって授業料が無料でした。夏過ぎくらいに親には大学に行かないと手紙を書きました。
次の年に文学座を受けたら一次で落ちて、次の年は二次まで行ったんです。そこでの面接で『親御さんに援助はしてもらえるのか』といきなり聞かれまして。正直に『勘当されています』と答えたら『アルバイトとかやりながら片手間でできることじゃないから親御さんに頭下げてきなさい』って。『そんなことできる状態ではないんです』と言っても無視です。
『これまでも習い事しながらいろいろバイトやってきたんで大丈夫です』と言ったら『そう言って続いた人間はいない』と言われたもので僕もムッとしてしまい、『僕は僕です。できます!』と返したら『いや、できない!』と。そこから押し問答です。それで『おしなべて全員が全員一緒だと思わない方がいいんじゃないですか』と言って出ちゃったんです。
それで次に受けたのが青俳で。面接の相手は木村功さんでした。文学座と同じことを聞かれたので、今度は賢くいこうと『援助はあります』と答えましてね。そしたら受かっていたんです」