いまでこそ大阪のヤクザ社会では山口組が圧倒的な影響力を持つが、1960年代に神戸から山口組が本格的に進出するまでは、群雄割拠の時代だった。ミナミを縄張りとする南一家や博徒の流れを汲む酒梅組、さらに互久楽会や松田組など大組織に属さない独立系の組が数多くあった。
大阪に多くの組織が生まれた背景を、ヤクザに詳しいフリーライターの鈴木智彦氏はこう説明する。
「江戸時代の大阪は天下の台所と言われ、全国で最も金が集まる都市でした。そういう場所で賭場を開くのが大きなシノギでしたから、自然とヤクザが乱立したわけです。また、彼らは差別され行き場を失なった人たちの受け皿として機能した側面もあります。
商業都市らしく大阪のヤクザはリアリストです。既得権としての縄張りにこだわらず、実力次第でどこにでも出て行く胆力を重視する気風がある。おかげで“一匹狼”が成り立つ要素が生まれ、多くの中小組織が入り乱れるようになったという経緯があります」
江戸時代の大阪は、反権力の街でもあった。豊臣秀吉を「太閤さん」と呼んで慕った大坂の町人たちは、豊臣政権を倒して天下を握った江戸幕府への反抗心を潜在的に持ち続けた。こうした伝統がヤクザを容認してきた背景にあるのかもしれない。
大阪が生んだヤクザの代表が「殺しの軍団」と怖れられた柳川組だ。初代組長の柳川次郎の本名は、梁元ソク(ヤン・ウォンソク)。釜山生まれの在日韓国人である。
柳川は終戦後の混乱期の大阪で在日の愚連隊を率いて暴れ回り、1958年に起きた西成の鬼頭組との抗争では、わずか8人で日本刀を手に殴り込みをかけ、100人の組員を相手にした死闘を制したことで名を馳せた。