【書評】『AIに負けない子どもを育てる』/新井紀子・著/東洋経済新報社/1600円+税
【評者】大塚英志(まんが原作者)
現場以外の危機感が薄いが高校の国語「改革」問題はこれから先、私たちが「ことば」をどう設計していくべきなのかという根幹的な問いをはらんでいる。現場では国語教育の「論理国語」化が高校に限らず同調圧力となっている感があり、その醸成を担うのがAIを持ち出し、教科書を読めない子の存在を煽る新井紀子らだ。
同調圧力は「AI」「国語」の組み合わせでAmazonの検索で引っかかる本で簡単に可視化できる。成程、改革で想定される実用文書の代表といえば官僚文書で、自ら作った文書の「意味がわからない」官僚がまかり通る国ならむしろ「論理国語」は公務員研修にこそ導入すべきだ。
などという皮肉はともかく、国語教育はどこに向かうべきか。2018年に告示された学習指導要領によれば、国語の目標は「生涯にわたる社会生活」「我が国の言語文化」に加え「他者との関わり」の3点だ。「他者」という語は国語科全教科の説明に登場する。同じく「社会生活」との関わりも全教科。つまり他者を理解し社会に参画するに必要な能力取得が「国語」教育の目標である。
いうまでもなく近代文学の権能は他者理解だ。しかし今この国は外交から日常まで他者を理解するのではなくヘイトする術にのみ長け、それが「近代」ではなく「現在」の文学やジャーナリズム、そして日々私たちがSNS上に紡ぐ日本語だ。その時、見出すべきは柳田國男が敗戦後に試みた主権者教育としての国語だ。
「他者」と公共性を構築していくための国語だ。普通選挙で自分の考えで投票し得る基礎学力としての国語教育だ。「社会生活」で私たちに求める最優先の能力とは社会構築に直接参加する主権者たること以外、考えられない。官僚文書の典型たる玉虫色の指導要領を「読む」ことで、じつはこの「国語」教育を近代文学、主権者教育の根幹に戻すことさえできる。対AIでなく、官僚文書と「国語」に関わる人々の国語力の戦いが成されるべきだ。
※週刊ポスト2020年1月17・24日号