“一人一殺”のワンポイントに活路を見出し、大成した投手もいる。永射保(ながいたもつ)は1974年に広島から太平洋へ移籍し、左の横手投げに転向。中継ぎとして徐々に頭角を現し、福本豊、加藤秀司(ともに阪急)、門田博光(南海)、ソレイタ(日本ハム)、レロン・リー(ロッテ)など各チームの強打者を手玉に取った。
1979年から1981年まではリーグ最多登板を記録し、1983年の巨人との日本シリーズでは7試合中5試合に登板。そのうち4試合がワンポイント、1試合がツーポイントながらも、要所を抑えて西武の日本一に大きく貢献した。
1986年、阪神に入団した遠山昭治(のちに奬志)は高卒ながら1年目に8勝を挙げる。しかし、2年目以降伸び悩み、1991年ロッテに移籍。1995年には打者に転向するも、2年後に戦力外通告。その後、阪神に投手として拾ってもらい、1999年に野村克也監督の助言でサイドスローに転身。すると、この年に巨人の松井秀喜を13打数ノーヒットに抑え、『松井キラー』の異名を取った。
2000年には、右サイドハンドの葛西稔と交互に登板する『遠山―葛西―遠山―葛西』のリレーを野村克也監督が奇襲作戦として仕掛け、話題を呼んだ。
「投手は打者3人、もしくは回を終了するまで投げなければならないルールになれば、この作戦は実現しなくなります。何十年に一度の継投ですが、Bクラスの常連だった阪神を率いた野村監督が頭を絞って生み出した名采配。未だに語り継がれるわけです。なんでもかんでも、メジャーに倣えばいいわけではない。ルールを単純化することは日本の良さを消すことにもなる。『アメリカがやっているから』『時間短縮になるから』という理由だけで導入するべきではないでしょう」
ワンポイント禁止は、日本に必要なルールなのか。じっくりと、あらゆる角度からの議論が望まれる。