2月12日、囲碁界の総本山である日本棋院を不当に中傷したとして、元名人の依田紀基九段(54)が半年間の対局停止処分となった。そもそも依田九段とはどんな棋士なのか──。依田九段を十代のころから知っている囲碁ライターの内藤由起子氏が、依田氏にまつわる“ぶっ飛んだ”エピソードの数々を明かす。
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依田九段は1966年北海道美唄市に生まれ、岩見沢市で育った。小学5年生で単身上京し、安藤武夫七段宅で内弟子生活を送る。
1980年、14歳でプロ入りしたときから「将来の名人」と目され、その期待通り2000年に念願の名人となった。名人4連覇や世界チャンピオンになるなど、トップ棋士として活躍していた。
一流棋士でも、国民栄誉賞を受けた井山裕太三冠ら平成生まれになると、常識的な人がほとんどだ。けれども、借金にまみれ、アルコール中毒、さらには病気と闘いながら碁を追究した藤沢秀行名誉棋聖に代表されるように、昭和以前生まれは実に個性豊かな棋士が多かった。
そんな中、依田九段は“最後の無頼派”と評される。
◆遊びたいがために18歳で独立
依田九段の師匠、安藤七段は、「衣食住などの環境を整えてやれば、あとは本人のやる気、努力次第」という育成方針だった。
依田少年は持ち前の集中力で碁に没頭し、碁盤の目(縦横の線)がすり切れて消え、のっぺらぼうになるまで碁石を並べて勉強した。
その一方で、一般常識と思われるようなことが、できないこともあった。
たとえば、20歳を過ぎても、ネクタイをひとりで結べなかった。碁に関係ないこと、必要があると思えないことは覚えようとしないのだ。テレビ対局のときなどは、首を差し出してスタッフらにネクタイを締めてもらっていた。
そんな状況でも、「何かに大きく秀でている子は、何かできないことがあるものだ。仕方がない」と、師匠は無理に教えこもうとはしなかった。
18歳で内弟子から独立して一人暮らしを始めたのは、遊びたいがためだった。碁の勉強を疎かにし、博打、酒、オンナにのめり込んでいったという。
〈この当時は女性が複数いる時期のほうが長かった。電信柱すら女体に見えるサル状態だったから、最高で8人同時進行という時期もあった。それでもほとんど罪悪感はなかった。恋人の関係という意識が希薄だったからである〉
と、依田九段は著書『どん底名人』(角川書店)でも吐露している。