2月11日、1990年代のヤクルト黄金時代を築いた野村克也さんが虚血性心不全のため84歳で亡くなった。テレビで野村さんが特集される際には、ヤクルト監督時代の愛弟子とも言える、古田敦也氏がゲスト出演する機会も多い。
野村さんがヤクルト監督就任した1990年、古田氏は1年目から正捕手に抜擢され、ゴールデングラブ賞を獲得。2年目には落合博満(中日)とのデッドヒートの末、首位打者に輝いた。3年目には3割、30本塁打を記録し、14年ぶりのリーグ優勝に貢献。4年目にはMVPに選ばれ、チームを日本一に導いた。
ヤクルトの顔としてリーグ優勝5回、日本一4回を経験した古田氏は2006年に選手兼任監督に就任。捕手出身の名監督と言えば、野村克也さんや森祇晶氏らがおり、他にも梨田昌孝氏(2001年・近鉄)や伊東勤氏(2004年・西武)がリーグ優勝を経験している。野村克也の教えを受けた古田捕手がどんな采配を振るうのか、注目度も高かった。野球担当記者が話す。
「古田氏は『野村ID野球の申し子』と言われていたこともあり、いわゆる“スモールベースボール”を実践するのではないかと思われていました。しかし意外にも、攻撃的な野球を展開。今では多くの球団が採用している『2番に強打者を置く』という作戦を敢行しました」(以下同)
古田監督は就任1年目、前年に打率3割6厘、14本塁打を放って主に6番を打っていたアダム・リグスを2番に抜擢。1番・青木、2番・リグス、3番・岩村、4番・ラミレス、5番・ラロッカと続く強力打線は、リーグ1位タイの得点を叩き出した。
「前年、ヤクルトの得点は591でリーグ最下位でしたから、古田監督の采配が見事にハマった格好です。当時、まだあまり注目されていなかったOPS(出塁率+長打率)にも着目。リグスは39二塁打(リーグ2位)、39本塁打(リーグ3位)を記録し、OPSは9割1厘(リーグ5位)。『2番・リグス』が大量点を生むポイントになりました。現代野球の先駆けとも言える采配でした」
監督1年目は3位になったものの、2年目はリグスが故障で37試合の出場に留まり、2番に長打のある打者を置けず、得点力が低下。投手陣も崩れて最下位に沈み、この年限りで選手を引退するとともに、監督も辞任した。以来、楽天やソフトバンクの監督候補として名前が挙がったことはあるが、実現はしていない。