厚生労働省のまとめによると、2019年には100歳以上の高齢者数が7万人を超え、数字的にも「人生100年時代」を裏づけるかたちとなった。仕事を離れてからの期間が長くなり、そのなかで多くの人が「死」について考えるようになっている。“どう死ぬか”は、人生晩節の重要テーマといっていい。ヒントは「禅にあり」とするのが、先頃『定命(じょうみょう)を生きる よく死ぬための禅作法』(小学館刊)を上梓した曹洞宗建功寺住職の枡野俊明さんだ。どうしたら、よい死を迎えられるか。枡野さんに聞いた。
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──よく死ぬ、よい死を迎える、といってもなかなか具体的なイメージが湧かない気がするのですが、簡潔にいうとどういうことでしょうか。
枡野:思いを残さないこと、安らかな心、穏やかな心で、目前の死に向き合うことだ、とわたしは考えています。「できるだけのことはやりきったなぁ。なかなかいい人生だったじゃないか」と思えること、といってもいいですね。
──長い人生ですべてを“やりきる”というのは、とても難しいと思うのですが……。
枡野:たしかに人生は長いですが、よく考えていただくと、それは一瞬、一瞬の積み重ねですよね。人生のどのステージにいても、人は「今」という一瞬を生きていますし、できることはその一瞬にしかないわけです。今をやりきる、一瞬をやりきる、ということなら、できるのではありませんか。
たとえば、みなさん食事をされますよね。食事をするときは、そのことをやりきる。禅に「喫茶喫飯」という言葉があります。お茶を飲むときは、飲むことだけに集中する。食事をいただくときは、いただくことだけに一生懸命になる、という意味です。それがやりきるということですね。
でも、みなさんの食事はそうなっているでしょうか。テレビを観ながら、新聞に目を通しながら、スマホをチェックしながら、といったことになっているのではありませんか。やりきっていないのです。そこをやりきるようにすればいい。心を込めて、ていねいに、食事をいただく。そんなに難しいことではないでしょう。すると、味わいも格別のものになりますし。食事をいただけることへの感謝の気持ちが湧いてきます。それが、禅でいう、やりきっている姿といっていいでしょう。
──それなら、心の持ち方ひとつでできそうですね。
枡野:できます、できます。食事にかぎったことではありませんよ。一事が万事です。挨拶でも、掃除でも、もちろん、仕事でも、また、趣味やスポーツでも、それをすることだけに集中する、一生懸命になる、ことはできるはずです。
禅ではそれを「(そのことと)一枚(ひとつ)になる」といいますが、禅の根本的な考え方、もっとも大切な教えは、そのことにある、とわたしは思っています。ひとつになることが、すなわち、やりきることです。
──そのようにして、日常のさまざまなことをやりきっていったら、よい死を迎えられるということでしょうか。
枡野:やりきったという思いは、達成感、充実感をもたらします。それは、満足感にも、幸福感にもつながっていくでしょう。もちろん、そこには喜びや楽しさもあるはずですよね。そんな「今」が積み重なっていったら、「おお、いい人生じゃないか!」ということになりませんか。
“いい人生”と“よい死”はコインの裏表です。いい人生を紡ぐことにつとめていたら、それでいいのです。良寛さんにこんな言葉があります。「死ぬる時節には死ぬがよく候」。死ぬときがきたら、ただ死んでいけばいい、ということですね。この“ただ”は、恬淡として、安らかに、清々しく、ということでしょう。(そのときどきの今を)やりきった、いい人生の先には、そんな死が待ってくれています。
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冒頭で触れた枡野さんの近著は、著者としてはじめて死を中心テーマに据えた作品だという。「人生100年時代」の格好の終活ヒント読本になりそうである。