【書評】『評伝 西部邁』/高澤秀次・著/毎日新聞出版/2000円+税
【評者】大塚英志(まんが原作者)
正直に言えば、いわゆる「論壇」に若気の至りで身を置いた時期、西部邁という人の書くものに僕はあまり関心が持てなかった。だから死の直前、彼の雑誌に全く唐突に呼ばれて久しぶりに彼の顔を見ても、では以前、いつ会ったのかが思い出せなかった。
会おうと言われ逃げ続けた江藤淳の後ろ姿を文春のロビーで一度だけ見たことや、対談中に随分と弱った(ただしその後、長生きもした)吉本隆明に肩を貸した感触は今も鮮明に覚えているのに、である。それは結局、彼の顔を意図せずともテレビモニターその他の「大衆メディア」の中に散発的に見続けたからかもしれない。
ぼくが西部に魅かれなかったのは、彼が何も信じていないように思えたからだ。江藤も吉本も妻と犬猫に実存の拠り所を置き、ぼくはそういう犬猫に根差す思想しか信じないと江藤の死の時、うそぶいた記憶がある。西部もその点は共通だが、しかし江藤は近代というものに幾許かの可能性を信じていたし(だから加藤典洋や上野千鶴子やぼくがねじれた偏愛を受けた)、吉本は良くも悪くも大衆を信用しようと決めていた。
無論、「信じない」ということは彼の潔癖さなのかもしれないが、著者の高澤が、吉本が西部の思想に「大衆」という概念がないと批判したことに憤るように、西部の思想の一面は「大衆」的なものへの批判として痛々しくあった。
高澤は西部を殺したのは「集団になると嵩にかかって居丈高になる」「大衆人」であるとする。その憤りはわからなくない。しかし今、その「大衆人」は「嫌韓本」の市場でもある「保守」や「日本人」を自称する人々の顔をしている。西部ならずともかつての「保守」はうんざりするだろう。
だが、その程度の「大衆人」が、一人の思想家を殺したとするなら、つまりは、彼が批判するものに敗れたことになる。それはそれでテレビのモニターのこちら側の大衆の一人であるぼくは、やはり西部が嫌悪した側の人間として思いもする。
※週刊ポスト2020年3月20日号