1991年のドラフト4位でオリックスに指名されたイチロー。ルーキーイヤーから活躍したように思われがちだが、開花したのは3年目だった。当時の一軍首脳から打撃フォームを批判されて二軍に落とされ、河村健一郎コーチと“振り子打法”を作り上げた。河村氏が当時を振り返る。
「当時のイチローはレベルスイングでしたが、監督や一軍コーチにはアッパースイングに見えたらしい。基礎体力が無く、一軍ではスピードボールに差し込まれて凡フライとなったためです。“内野ゴロを打たせればイチローの足ならセーフになる”とダウンスイングへの修正を命じられましたが、イチローは頑として受け入れなかった。二軍であまりに結果を残すので上から声がかかるが、一軍に上がると監督やコーチは打撃フォームが気にいらない。この繰り返しでした。
イチローは二軍に落ちても腐ることなく猛練習したし、我々も2年後を見据えた練習を課した。二軍の試合で300打席立たせることを目標に、打って、投げて、走ることでゲーム勘と基礎体力を養わせる方針で臨んだ」
その結果、3年目にシーズン210安打の日本記録(当時)を更新したが、それでも一部の首脳陣から「まぐれだ」と言われ続けたという。