同じ時代にコメディ界のトップを並走しながらも、志村けんさんと萩本欽一はあまり接点がないように思われるが、はたして、実際は──。新型コロナウイルスによる肺炎のため、志村けんさんが逝去してから1週間が過ぎた。各局の追悼特番は軒並み高視聴率を記録し、改めてその偉大さを実感させている。(文中敬称略)
志村けんがコメディアンの道を志した昭和40年代前半、お笑い界にはザ・ドリフターズとコント55号が台頭し始めていた。志村はどちらに弟子入りしようか悩んだ末、高校卒業を控えた昭和43年2月、いかりや長介の家を尋ねた。
〈55号の動き回る笑いが好きだったんですが、ビートルズが好きだったんで音楽もあるドリフに行ったんですよね〉(平成26年6月17日・スポーツ報知)
ちょうど欠員が出るという運も重なり、1週間後にいかりやから連絡が入り、志村はドリフの付き人になった。
志村が汗水垂らしながら下積みをしていた昭和43年7月、フジテレビの土曜夜8時枠で『コント55号の世界は笑う』が始まる。萩本欽一と坂上二郎がスピーディーな動きでお茶の間を賑わせ、他局が同時間帯を“不毛地帯”と呼ぶほどの高視聴率を獲得した。
すると、ライバル局のTBSは翌年10月からドリフの『8時だョ!全員集合』を開始させ、昭和45年に“土8”のトップに立ち、『世界は笑う』は終了に追い込まれた。