この4月でデビュー40周年を迎えた松田聖子(58)。昨年の紅白歌合戦でもメドレーを披露し、いまだトップクラスの存在として音楽シーンに君臨する彼女だが、1980年代に激しいライバル争いを繰り広げたのが中森明菜(54)だ。聖子と明菜は何が違ったのか? 今春、『1980年の松田聖子』(徳間書店)を上梓した芸能ノンフィクションライター・石田伸也氏が、歌詞を通じてライバル対決を読み解く。
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80年代のアイドルシーンは、松田聖子と中森明菜による頂上対決が続いた。明菜のデビュー曲『スローモーション』(1982年)は最高位30位に終わり、2作目の巻き返しが必要だった。起用されたのはコピーライターから1年前に転身した作詞家・売野雅勇である。
「参考にしたのは阿木燿子さんの一連の作品。例えば『プレイバックPart2』の“バカにしないでよ”のように、捨てゼリフが生きるんだと思った」
「私は私よ関係ないわ」と叫ぶ『少女A』(1982年)である。明菜は自分のイニシャルと同じであることに激しく抵抗したが、ディレクターは明菜を強引にマイクの前に立たせ、ほぼ一発でレコーディングを完了させた。そして明菜にとっても、売野にとっても初めての大ヒットとなった。
「明菜自身はバラードが好きだけど、本人が好きなものと、お客さんが求めているものは違うというのが『少女A』でわかったはず」
売野の感想である。実際、明菜は『少女A』が嫌いと公言しながら、セットリストから外すことはなかった。売野はさらに『1/2の神話』(1983年)、『禁区』(1983年)、『十戒(1984)』(1984年)で初期の明菜イメージを作った。河合奈保子や、チェッカーズ、荻野目洋子、堀ちえみなども手掛け、80年代のアイドル歌謡シーンに君臨する。そんな売野にとって明菜は、もっとも描きやすい歌手だった。