作家の甘糟りり子氏が、「ハラスメント社会」について考察するシリーズ。今回は、いまだ出口の見えないコロナ禍の中で感じた差別意識について言及する。
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ちょっと咳をしただけでも、もしかして罹患したのかと不安になる。新しい情報が欲しいから、ついテレビやSNSをチェックする時間が増える。ネガティブな情報に触れては、また不安に…。日々、その繰り返し。そんな中、SNSでは、いまだに新型コロナウイルスを「武漢ウイルス」だの「チャイナ・ウイルス」だのと呼ぶ人が少なからずいて、いやな気持ちになる。トランプ大統領は3月24日に訂正を表明するまで、チャイナ・ウイルスと連呼していた。
全世界を襲っているこのウイルスは中国の武漢から始まったとされている。当初、2019年12月に武漢の海鮮市場で働く女性が初めての感染者だと報じられたのだ。その後、コロナ騒動が世界に飛び火してから、11月に武漢のある湖北省の男性が感染しており、これが最初だという報道もあった。5月6日付のフランスの新聞では、パリ郊外の病院が肺炎で入院歴のある患者の検体を再検査したところ、2019年12月に入院した男性の陽性が判明したというニュースも流れた。この男性に中国への渡航歴はない。
何しろ未知のウイルスだから、情報も混乱してしまう。刻一刻とアップデートされる。しかし、いずれにしても、中国での感染が拡大した初期の段階で中国側が詳細を隠そうとしたことは明らかであり、その点で批判されるのは仕方がないと思う。だからといって、ウイルスの呼称に地名をつけるのはずいぶんと野蛮な行為だ。
WHOが2月11日、ウイルスの正式名称を「COVID19」と発表した。特定の地域や国の名前で呼ばれてしまうと偏見を生むからである。同時に、その地域に行かなければ感染しないという誤解を与えかねないのも理由だ。
やっと差別は恥ずかしいことだという当たり前の方向に世の中が進んでいたのに、コロナ騒動によって後退してしまったように感じるのは私だけだろうか。まだこれからだったのに、振り出しに戻った、というか。
あるきっかけで定期的に投稿を目にする人(著名人ではない)がいて、プロフィールによれば新聞社で働いていたそう。海外の新聞記事やテレビ報道もたくさんチェックしていて、情報は豊富にお持ちだ。それを踏まえての分析は理論的で、意見は説得力がある。新しい世の中に対応した柔軟な考えが読み取れる。それなのに、当たり前のように「武漢ウイルス」と書く。その一言で、一気にその説得力も失われてしまう。まさか、WHOが特定の地域とウイルスを結びつけて呼ぶことに警鐘を鳴らし、「COVID19」と名付けたことを知らないわけでもないだろう。なぜ、この人がかたくなに(と、私には思える)、武漢ウイルスと呼ぶのかわからない。
「チャイナ・ウイルス」「武漢ウイルス」と呼ぶ人たちは、ここぞとばかりに中国の揚げ足を取ろうとしているように思える。日頃のうっぷんを、中国を批判することで晴らそうとしている。いや、批判なんてちゃんとしたものではなく、悪口。場合によっては八つ当たりに近いかもしれない。もちろん、世の中に批判は必要だと思う。きちんとした要因と理屈があって批判するなら、それはまっとうされるべきだ。
そして、どこか特定の国や地域の文化が好きか嫌いか、というのは悪いことではないと思う。正直いって、私にも苦手な文化はいくつかある。けれど、嫌いだからといって、全否定する権利は誰にもない。自分が好きではない国もしくは地域を下げることによって、自分の住んでいる国もしくは地域を優位に立たせるのは虚しい行為である。
もし、自分が住んでいる地域もしくは自分の育った街が感染病の名前になったら、と想像してみるといい。どこに住んでいるんですか? ○○です。ああ、あの○○ウイルスの。なんて会話があったら、たいていはいやな気分になるだろう。初期の詳細を隠そうとしたのは政治家や国の幹部であって、武漢の市民ではないし、中国の国民ではないのだ。
ニュースでは、毎日毎日、各国の感染者や死亡者が競うように報道される。まるで負の競技大会のようだ。国内の感染状況も地域ごとの報道になり、どうしても「自分の住んでいる場所」を意識せざるを得ない。自由な移動もままならない今、アドレス・ホッパーなどと呼ばれる人たちがいたことが、遠い昔のように思える。このウイルスは進み過ぎた世の中への揺り戻しなのだろうか。
そんな揺り戻しに抵抗するにはまず、特定の国や地域をつけてウイルスを呼ばないことである。
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