圧力を跳ね除け、微塵も忖度しない。事務所の大小に関係なく、スキャンダルを報道する姿勢を目の当たりにした芸能人の間では、「梨元に言いつけるぞ!」という言葉が流行した。
梨元勝さんがレポーターに転身した1976年、歌手の克美茂が殺人事件を起こす。他局が本人を追い掛ける中、梨元は被害者の実家を直撃。部屋に招き入れられると、母親が仏壇の前で悲哀を語る傍らで、父親は台所のテーブルで出刃包丁を叩きつけた。戦慄的な映像は大きな話題を呼び、梨元勝は日本中にその名を轟かせた。
「恐縮です!」の代名詞で知られた突撃レポーターの先駆者は、我先に現場に向かった。会見には2時間前に到着し、タレントに最も近い場所を確保した。岡田有希子が飛び降り自殺を図った時も現場に一番乗りし、事務所内に入り込んで専務にいち早くマイクを向けた。同時期に芸能レポーターとして活躍した前田忠明氏が語る。
「各局も続々と押し寄せたので、相澤秀禎社長が経緯を話してくれた。あの頃は現場に何社も集まるから、自然と会見せざるを得ない状況になった。その中で梨元はよく一番乗りしていたよ」
スクープを追い求める執着心に、大物スターも一目置いていた。勝新太郎がホノルル空港でコカインと大麻所持で逮捕された時、各社が勝との接触に腐心する中、梨元は一緒にゴルフをするほど食い込み、独占で肉声を伝えた。暴行事件を起こした木村一八が少年院から出所すると知ると、すぐに父親の横山やすしを訪ねた。1986年から約8年にわたり、梨元の事務所で行動を共にした井上公造氏が語る。
「ゴルフに行くために梨元さんと首都高を走っていたら、情報が入ってきた。すぐに大阪の自宅に飛んだら、『梨元、一等賞や。おまえだけに話す』と心を開いてくれた。他のマスコミにバレないように数日間ホテルに泊まってもらい、生放送に一八さんと2人で出てくれました」
情報を嗅ぎつける能力も一級品だった。ライバルだった前田氏が思い起こす。
「1998年、離婚直前のマリアンがハワイに滞在していると聞いて、俺が飛行機に乗った。そしたら、どこから聞きつけたのか、30分後の便で梨元が追い掛けてきたんですよ(笑い)。俺は空港に着くなりホテルを取って、独占インタビューに成功した。代わりに梨元は夫を取材した。常に独自ネタを求める男でしたね」