放送作家、タレント、演芸評論家で立川流の「立川藤志楼」として高座にもあがる高田文夫氏が『週刊ポスト』で連載するエッセイ「笑刊ポスト」。今回は、東京喜劇(笑い)を受け継ぐ日大芸術学部の縦のラインに思いを巡らせ、爆笑問題の田中裕二がコロナ入院で大ピンチとなった太田光と彼のために駆けつけた助っ人たちについてお届けする。
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東京で、笑いの本場といえば〈浅草〉でした。今考えてみるに……私だからそう思うのかもしれませんが、正しい東京喜劇(笑い)をキチンと受け継ぎリレーして、今も攻めつづけているのは〈日大芸術学部の縦のライン〉ではないでしょうか。森繁久彌と並ぶ喜劇王、三木のり平先生。私はこの人が一番面白いと思っている。そして三波伸介、ケーシー高峰。
出る方ばかりでなく裏方も。私とすぐ下の森田芳光監督(故人だがこの男の作品のユーモアには素晴しいものがある)。そして今をときめく立川志らく、爆笑問題、宮藤官九郎、春風亭一之輔……東京の笑いの半分以上は日芸産なんではないかと思ってしまう。
その爆笑問題の太田光が大忙しの大ピンチだった。田中のコロナ入院。片玉田中の片棒かつぐ爆問の片方が、片肺飛行で次々仕事をこなしている。憎まれ口を叩く太田だがやはり人柄だろう、土俵際になれば色んな人が助っ人に来てくれた。私が一番笑ったのは『サンデージャポン』の生放送、田中裕二にフォルムが似ているというだけで、霜降り明星のせいやが相方をつとめた。アハハ無理があるっつーの。
この後、日曜日はラジオでも4時間生放送を持っていて、感動したのは、まず中山秀征と4時間喋りたおしたこと。この二人のからみなど、業界人でも想像した事はなかったろう。先に10代の頃からヒデちゃんはABブラザーズとして、もの凄い売れ(この頃よく「コント見る」と言ってはABの合宿部屋へ行って私は酒を呑んでいた)、この時代、爆問はまったく陽が当ってなかった。戦友みたいなトークが清々しかった。