【書評】『プライヴァシーの誕生──モデル小説のトラブル史』/日比嘉高・著/新曜社/2900円+税
【評者】平山周吉(雑文家)
「最後の私小説作家」車谷長吉が、名誉毀損訴訟をきっかけに、私小説の筆を折ったのは十五年前、六十九歳で亡くなったのは五年前である。獅子身中の「毒虫」をわが体内に棲まわせ、その毒を俗世間に向って発射し続けた車谷長吉が、もしこの本を読んだならどんな感想を吐くだろうか、と読書中、常に「贋世捨人」車谷長吉の坊主頭がちらついた。
日比嘉高の『プライヴァシーの誕生』は、その副題にあるように「モデル小説のトラブル史」百二十年を展望し、現在のネット社会の問題点にまで議論を敷衍させた野心的文学史である。百二十年のちょうど中間点に位置しているのが、三島由紀夫の『宴のあと』だ。その裁判によって、「プライヴァシー」という概念が日本ではあっという間に市民権を得た。
その時、三島の「知名度」が原告側によって利用されたという皮肉、一般読者の覗き見欲望の危険を『宴のあと』の中に既に書き込んでいた三島の洞察力の指摘など、一筋縄ではいかない逆説が本書の懐ろの深さであろう。
柳美里『石に泳ぐ魚』裁判は一九九四年から始まった。この裁判では、「表現の自由とプライヴァシーの権利」といった対立軸よりも、「ペンの暴力」と「報道被害」という側面が大きくなった。個人情報保護法が成立するのは判決が確定した翌年、二〇〇三年であった。
しかし、ここまでは牧歌的時代なのかもしれない。ネット時代の技術革新により、オーウェルの『一九八四年』を超える超監視社会が当たり前に成立してしまった。「いつどこで執拗で網羅的な監視網が出現するかわからない世界」を生きる我々は、「万単位の視線を内面化し、彼らに見られ/読まれることを想像する」恐怖時代の只中におり、書き手は「過度な厳格化」に直面せざるをえない。
近代日本の「私」と「公」意識の変化を辿ることから始まった本書は、純文学の相対的地盤沈下となった現在とそれ以降も視野に入れた、メディア状況の中の言葉と法をめぐる刺激的な考察である。
※週刊ポスト2020年10月30日号