【書評】『西瓜とゲートル オノレを失った男とオノレをつらぬいた女』/桑原茂夫・著/春陽堂書店/2000円+税
【評者】嵐山光三郎(作家)
桑原茂夫は「現代詩手帖」名編集長として勇名を馴せ、ルイス・キャロル『不思議の国のアリス完全読本』を刊行し、泉鏡花舞台製作(劇団唐組)で活躍中。詩人田村隆一が「三田のやおやの息子」として諠伝した。
やおやの息子が奮励努力して東大に入学したものの大学紛争で校舎封鎖となった。篤実なる哲学者今道友信教授の前で、高倉健の「網走番外地」を歌って卒論とした。
桑原のオトーサンはJR田町の駅前通りでやおやを経営して繁盛していたが、戦争に召集され、敗戦後に復員すると、以前とはまったく別人格の「呆然オトーサン」になってしまった。軍隊で上官のビンタで叩かれ、徹底的に痛めつけられた。足にまかれたゲートルをはがすと、腐臭を放たんばかりの血まみれの傷があった。
精神を傷つけられ、足の傷から血を流すオトーサンは、店の裏の三畳間にこもって心を閉ざしたままであった。戦争の悲惨は戦場にだけあるのではなく、軍隊という組織内の暴力にある。桑原一家は「呆然オトーサン」の無気力なる変貌によって埼玉県へ夜逃げすることになった。そこにどういう事件があったのか。
夜逃げする前、自宅に紙芝居屋がきて、茂夫ひとりのために上演した。その理由は謎のままであったが、亡母のコウリの中から小さな手帳を見つけた。ゴツンとしたぶっきらぼうな筆跡は、まぎれもなく母であった。一九四五年四月七日、オトーサンに召集令状が届いた日から大空襲にあう日までの克明な日記。西瓜とはなにか? ゲートルとはなにか。50年のあいだ閉ざされたままだった母の手帳から浮きあがってくる真相。唇をかみしめて読んだ。
夜逃げするとき深夜三時半にトラックがやってきた。助けてくれたのは人情家の詐欺師。詐欺師の情けに救われ、桑原少年ひとりが運転助手席に坐った。他の家族は始発電車で逃げた。桑原の胸にわだかまっていたオトーサンの孤独がジンジンと胸に迫ってくる。77歳の桑原コンシンの一冊だ。
※週刊ポスト2020年10月30日号