コロナ禍で苦戦する全国の映画館を応援しようと、4人の映画人がオンライン・トークショーを行っている。『ミニシアター押しかけトーク隊「勝手にしゃべりやがれ」』と題したイベントでは、賛同した劇場で上映された作品について、荒井晴彦(脚本家、映画監督)、森達也(映画監督、作家)、白石和彌(映画監督)、井上淳一(脚本家、映画監督)の4氏がオンラインで縦横無尽に語る。その模様は、上映直後の映画館の観客が観覧できるほか、YouTubeでも公開されているが、ここではそれを活字化してお届けします。第二弾の作品は、『吠える犬は噛まない』ほか、ポン・ジュノ監督(『パラサイト 半地下の家族』でパルムドール、米アカデミー賞4冠)の作品群。前編、後編の2回に分けて掲載します(文中一部敬称略)。
定型的な物語をものすごく拒否する
井上:今回のトークは急に決まったので、白石和彌監督はスケジュールが合わず、この三人でやります。森さんはポン・ジュノの長編デビュー作『ほえる犬は噛まない』(2000)を今回、初めてご覧になったそうですが、これまでのポン・ジュノの作品は気にされていたんですか。
森:ええ、『殺人の追憶』(2003)は見てないんですけど、『グエムル-漢江の怪物-』(2006)と『母なる証明』(2009)は見てました。もちろん『パラサイト 半地下の家族』(2019)も。実は、昨日の夜、あわてて『スノーピアサー』(2013)を見ました。
井上:荒井さんは、ポン・ジュノの作品は『ほえる犬は噛まない』から順序立ててご覧になっていると思うんですけど、ネットフリックスで配信されている『オクジャ』(2017)は見ていますか?
荒井:それは新しいやつ? 見てない。
井上:ちなみにぼくは、東京国際映画祭の「アジアの風」部門で『ほえる犬は噛まない』が初上映された時に、なんの予備知識もなく見て、なんという傑作が現れたんだろうとびっくりして以来、『オクジャ』以外は全部見ています。森さんは『映画芸術』に『パラサイト』のことを「何かが足りない」的なニュアンスで書かれていましたけど、いかがでしたか。ぼくは『パラサイト』に足りないものが全部、この『ほえる犬は噛まない』にあるんじゃないかと思ったんですが。
森:初々しいですよね。映画青年がつくった映画だなっていうのが第一印象ですけど、ポン・ジュノに限って言えば、彼の中での最高作とは思わなかったですね。
井上:ちなみに森さんの中でポン・ジュノの最高作ってなんですか。
森:一番手ごわいのは『母なる証明』かな。
井上:荒井さんは、このトークテーマでやりますと言ったときに「ポン・ジュノの中では『ほえる犬は噛まない』が一番傑作じゃないの」って言っていましたけど、見直してどうでした?
荒井:まあ、一番まとまっているっていうか、分かりやすい映画だよね。あの巨大な団地の警備員のおじさんは犬を殺しているのに、なぜつかまらないの? 団地の地下に住んでいる浮浪者のほうが捕まっているけど。最初は警備員のおじさんが犬を食べてるんじゃないの?
井上:警備員のおじさんは食べたけど、主人公の青年(イ・ソンジェ)がロッカーに閉じ込めた犬は中で餓死していて、おじさんは死体を食べただけだから、犬は殺してないっていう解釈だと思いますよ。
荒井:あ、そうなの?
井上:だって、主人公が団地の屋上から放り投げて殺してしまったもう一匹の犬だって、あのおじさんは自分で埋めておいて掘り返して食べようとするじゃないですか。
荒井:あ、そうか、そうか。拾ってくるからか。自分で手を下してないものね。最後、あの青年が犬食いの証拠だと思って鍋を開けたら、中身は羽根をむしられた鶏だったっていう、あれはなんなの?
井上:それは普通の映画の常道の外し方と同じだと思いますよ。犬かと思ったら、鶏だったと。あのおじさんは犬が手に入ったときだけ犬を食べていて、それ以外は普通に鶏を食べてたという意味かと。ところで、荒井さんは『母なる証明』以降のポン・ジュノは評価していないですよね。
荒井:『母なる証明』は、ラストの観光バスの中で母親が踊っているところからしてよくわかんない。
井上:荒井さんは、ポン・ジュノの中で一番、面白いのはどれですか。
荒井:『殺人の追憶』のクオリティは、韓国映画もここまできたかと思ったけれども、それ以降、だんだん、つまんなくなって。『スノーピアサー』にはがっかりした。近未来ものが好きじゃないというのもあるけど。この列車はどこを走ってんのって。
井上:『母なる証明』のことで言うと、当時、荒井さんは、知的障害のある主人公の青年がお母さんの鍼灸道具が殺害現場に落ちているのを見て、お母さんが目撃者の老人を殺したんじゃないかって気づくのは、障害者の便利使いじゃないかと批判したんですよね。あそこで気づくのはご都合主義じゃないかって。
荒井:ああ。
森:当然、いろんな解釈があって、だから、実はあの主人公の青年は障害者じゃないんだ、障害者を装っているんじゃないかっていう解釈をした人もいましたね。ぼくはそうは思わなかったけど。『映画芸術』にも書いたことなんだけど、『パラサイト』もそうだし、『母なる証明』が特にそうなんだけど、ポン・ジュノは定型的な物語をものすごく拒否するんですよね。ふつうはこっちへ行くよねっていうときに全然違う方へ行くみたいなことをやっていて、その小技みたいなものがずっと全編を通して出ていて、『母なる証明』でも、結局、あれは何だったんだろうということになる。最後になると。冤罪じゃないわけだし、ふつうはこの手のドラマであれば、母親が必死に息子の冤罪をはらすっていう話かと思ったら、そうはならないわけでしょう。『グエムル―漢江の怪物―』も、最終的には娘が死んでしまう。定型的な物語の流れであれば、ふつうは死なないよね。
『パラサイト』を見て格差社会について深く考える人ってまずいない
井上:ハリウッド的な文脈というかハリウッドのみならずふつうの映画であれば、子供を殺すのは絶対にダメですよね。なのに、一番助けるべき対象であった娘をあっさり死なせる。でも、あの映画の肝ってそこなんですよね。娘を死なせて、浮浪者の男の子を代わりに新しい家族として育てるという。明らかに、森さんの言う「定型的な物語」に対する圧倒的な「拒否」をやっている。あと、家族って血が繋がっていることがすべてなの?みたいな価値観に対する問いかけも。当時、荒井さんも、娘を殺したことにやっぱり非常にシナリオ的に抵抗がある、映画としてどうよと言っていたと思うんですけど。
荒井:いや、俺はウェルメイド派だからさ(笑)。いわゆるハリウッドパターンを壊しているなあというふうに思ったよね。
井上:『ほえる犬は噛まない』でいえば、あの主人公の大学教授になりたい青年は実際に犬を放り投げて殺すわけじゃないですか。だけど、最後に、ペ・ドゥナが青年を追っかけて、彼の背中を見ながら、彼が犬を殺した犯人だと気づいたのかどうかはやらない。だから、犬殺しの罪は問われないまま、青年は大学教授になって、教室で、ファーストシーンで団地にいたときと同じような後ろ姿で居心地悪く佇んでいる。勧善懲悪というか罪は裁かれるべきという定型を拒否しているんですよ。
ぼくは『ほえる犬は噛まない』がなぜ傑作かというと、この映画には、いろんな意味で『パラサイト』に至るまでのポン・ジュノのドラマトゥルギーがぜんぶ詰まっているような気がするからなんです。高層団地に住んでいる人の中にも格差があり、底辺には警備員がいて売店の女の子がいて事務員がいて、さらに『パラサイト』と同じように、地下に住んでいる名もなき浮浪者のおじさんがいるという構造があり、その上で物語的、価値観的な定型を壊している。それが『スノーピアサー』になると列車という横位置になるわけですけど『パラサイト』ではふたたび縦の構造に戻ってくる。森さんは定型を拒否してると言っていましたけど、実は『パラサイト』は意外と定型通りに行ってないですか。
森:でも王道の定型でいえば、ラストの修羅場をあそこまで過剰にする必要はないし、パラサイトする一家の娘も死なないと思うんですよね。犬もそうだけど、ポン・ジュノはけっこう生き死にというところで、こちらの思いというか物語の常道を壊すよね。物語の一つの定型、一番アーキタイプ的な定型ってやっぱり生き死にだと思うんですけど、それに抗っている監督なんだろうな。だから『パラサイト』もけっこう外しているところはあるような気がしますよ。
井上:たしかに娘もそうですけど、お金持ちのお父さんだって殺されるようなことはなにもしてないんですよね。
森:そうそう。だから『パラサイト』では人が死ぬシーンは必要ない。なくたって全然、成立するんだけど、やっぱり、ポン・ジュノは誰かの死を入れたくなっちゃうんだろうね。
井上:だからどうやったって、ああいう格差が強力にある社会は、カタストロフィをひき起こしてしまうということなんでしょうね。
森:それが基底にあるんじゃないかな。『母なる証明』だって、母親が目撃者のおじいさんを殺して小屋に火をつけるシーンがあったけど、あれだってドラマトゥルギーの王道としては、殺す必要はまったくない。むしろ母親にも殺人をさせることで、ドラマとしての求心力が散乱してしまう。『スノーピアサー』の破綻もすさまじい。あんな大量殺戮する必要はないし、エンタメとしても歪になっている。だからどこかで、オーソドックスな物語の定型を壊すみぞたいな思いが、ポン・ジュノにはつねに働いているんじゃないかなという気がする。『ほえる犬は噛まない』の犬だって、普通は殺さないよね。ほうり投げるシーンを見せて「え!」と思わせても、次のカットでは屋根かなんかに実は引っかかっていましたとかの処理にする。でも彼はそれをしない。暗黙の了解をあっさりと壊す。
井上:そうそう。しかも『ほえる犬は噛まない』では犬を殺した主人公の青年をあまり憎めないじゃないですか。その辺がうまい。あと、犬が放り投げられたときに、ペ・ドゥナはずっと犬を見て、バーッと追いかけていくけど、太った友達の方は、落ちた自分の双眼鏡のほうに走っていくんですよね。ああいうときにペ・ドゥナのように犬の死を気にする人はいるけど、自分の双眼鏡だけを気にする人もいて、同じ貧しい人のなかでも分断、違いがあることをわりと図式的にきっちりやっている気がするんです。その図式が一番図式に見えないのが『吠える犬』と『殺人の追憶』で、このふたつの作品はちょっと異色な感じがあるじゃないですか。ウェルメイドが好きな荒井さんとしては、定型を壊していくポン・ジュノってどうなんですか。『パラサイト』なんか、森さんが言うように定型を外しても、あるドラマツゥルギーには戻って、アカデミー賞で世界で評価されたりするじゃないですか。
荒井:それはヤバいことは全然やってないってことだよ。だから方法論的に外している、ドラマツゥルギーとして外しているのかわかんないけど、『パラサイト』があんなに受けちゃったということはなんだろうな。あれを見て格差社会のことを考えるとかそういうふうにはならないんじゃないの。
井上:そうはならないけど、少なくともアカデミー賞で評価したり、カンヌ映画祭で評価した人には、その意図は伝わっていると思いますよ。
森:それについては、ぼくも荒井さんの見方に賛成で、『パラサイト』を見て格差社会について深く考える人ってまずいないと思うんです。それならケン・ローチとか是枝裕和さんの作品のほうが響くものがあるんじゃないかな。たしかに個々の作品は少なくとも格差社会をテーマにしている。だけどポン・ジュノには格差社会に対する批判性がないんだよね。どっかで遊んでるというかな。
格差社会っていうのはまず家庭が崩壊する
荒井:森さんが『映画芸術』で『パラサイト』が面白いか、面白くないかと聞かれるなら面白いと答えると。その面白さというのは考えさせる面白さじゃないんだよ。考えさせない面白さなんだよ。そういう意味では、いわゆるバカなお客さんが好むところのエンタメ映画で。だってさ、俺が批判しているのは、格差社会っていうのはまず家族が崩壊するんだよ。あんな一致団結した家族ってありえないよ。かなり前の階級社会っていうかな。貧乏人チーム、もう家族じゃなくてチームなわけだよ、で、結束してパラサイトしていく。そこがもう嘘なわけなんだよ。家族はバランバランになるし、金持ちのほうもバランバランになるし、そこでドラマを作っていかなければならないのに、もうひとつ地下の住人を出してみたりして、どうもあの話法が好きじゃないなあ。
井上:貧乏なソン・ガンホ側の家庭教師になる息子とお金持ちの娘ができちゃったりして、ちょっとやろうとしてるけど、かすっているだけなんですね。
荒井:うん、だから、俺は匂いの問題を出して、そこからやれば面白かったと思うけどね。貧乏のにおいをさ。ソン・ガンホのお父さんはチームリーダーみたいな指導者なんだけど、それがおかしいよね。家族がバランバランになっていて、お父さんなんかなんの権威もないぜというのが現実だと思うけど。そこだけ旧態依然とした家族像でもって話を作っているところが非常に観念的というかご都合主義的だと思うんだけどね。
井上:なるほど。確かに『パラサイト』に関しては、家族がチームになって、記号としてしか描かれてない。いっぽうで、『ほえる犬は噛まない』はそこを抜けているじゃないかと思うんです。その話に行く前に、いつも僕が言っている「届く人にしか届かない」という話があるじゃないですか。自分の監督作で言えば、『誰がために憲法はある』(2019)という憲法映画を作っても、憲法を守らなきゃいけないと思ってる人が見て、やっぱり守らなきゃいけないよねという自己確認にしかならない。今、おふたりが言われた、この映画を見て格差社会を考えるんだろうかということでいえば、格差問題をケン・ローチみたいにやってしまったら、それこそ届く人にしか届かないけど、あえて、こういうふうに戯画化することによって、より多くの人に届くんじゃないか。荒井さんは、届かない人に届けようと思って内容が柔らかくなっていったらしょうがないとおっしゃいますけど、森さんはその辺はどうお考えになりますか。
森:やっぱり作品の強度とは別に考えているんですよね。もちろん、井上さんが言ったように、今、見る人しか見ないというのは、それは映画に限らず、本でもそうだけど、ほんとうは向こう側の人、……向こうとかこっちとかの言い方はあまりしないほうがいいのだけど、とにかく僕の本をまず読まない人たちに届けたいのだけど、向こう側の人は読んでくれない。それが焦燥する要因ではあるんだけど、結果としては、逆に、作品としては薄いかもしれないけど、これだけ全世界で数多くの人が見ているということは、物量的には、つまりクオリティとクオンティティということでいえばケン・ローチよりもずっと数字的には大きいんですよね。でもそれはパブリシティの勝利でもあるわけで、作品の評価はまた別に考えなければいけない。
つまり映画を届けること、あるいは作品としての高い完成度を目指すこと。そうしたバランスはずっと悩んでいることで、テーマ性かメッセージか完成度か、あるいは興行的な成功、これは金銭的なメリットだけではなく、より多くの人に届けることができたかとの指標でもあるけれど、どれをとろうかみたいな話ですね。それらがうまくバランスがとれれば一番いいでしょうけれど、どれかを優先するとどれかが伸び悩む。ではケン・ローチとポン・ジュノの両方を見れば、テーマに関しては、ぼくはやっぱりケン・ローチのほうがいい。でももっとワイドスコープで見れば、たぶん、ポン・ジュノのほうがケン・ローチの何十倍か世界に届いている。じゃあ、ポン・ジュノの勝ちかっていうと、ちょっと待ってとぼくは思うんですね。
井上:ちなみに『パラサイト』がこれだけとくに欧米に届いたのは、なぜだと思いますか。
森:去年、まだ「ブラック・ライヴス・マター」には火がついていないけれど、映画の世界においても、『me too』を嚆矢にジェンダーの問題が活性化したり、こうした差別やヘイトやフォビアなどの問題は、白人と黒人だけの問題で終わらせていいのか、もっとアジア系でもヒスパニック系もいるんだよということはみんなどっかで思っていたからこそ、今年はアジアの監督が撮った『パラサイト』でという人が多かったんじゃないのかな。『パラサイト』が五年前だったら、あるいは五年後だったら、アカデミー賞を取ったかっていうのはむずかしいと思いますね。作品が面白かったことは全然否定しないんだけど、でも年に一回のああいったフェスティバルでトップを獲れる作品かどうかは疑問ですね。
社会改革のために映画を撮ってるわけじゃない
井上:荒井さん、この届く届かないという問題はどう思いますか?
荒井:うーん、だからどこに届いているのかということでいえば、アカデミー賞に届いただけでさ、ほんとうに格差社会でシンドイ思いをしている連中に届いたのかっていうふうには思わないけどね。だいたい、そういう人は映画を見ないでしょう。
森:荒井さん、それは、どっちにも届かない。コアにいる人には。それはもうどれだけ周りに響くかだよね。社会改革のために映画を撮っているわけじゃないからね。
井上:荒井さんは今でこそ、むずかしい、反娯楽派の作家みたいに思われていますけど、実は、自らウェルメイドと言うように非常にお客さんに届く作品を書いていて、35年ほど前には日本映画の興行収入ベスト5に『Wの悲劇』と『探偵物語』という二本の脚本作品が入っています。しかも、角川映画の正月映画『Wの悲劇』では、薬師丸ひろ子の処女喪失から始めて、パトロンが腹上死してしまった先輩女優の身代わりになって役をもらうっていう話を書いていて、明らかに角川映画でロマンポルノ的なものをやろうとしていたじゃないですか。ぼく自身はそうは思わないですけど、『パラサイト』は『ほえる犬は噛まない』のより届くバージョンではないかと。
荒井:いや、だから『ほえる犬は噛まない』がイマイチ評価されないっていうのは、やっぱり犬を食うことがあるんじゃないの。1988年のソウル・オリンピックの時にヨーロッパ勢から、韓国で犬を食うという習慣はいかがなものかって言われて、犬を食べさせる店はぜんぶ表通りから裏通りに移させるっていうことがあったじゃない。それは西欧側に、いまだに犬を食べることに対する嫌悪っていうのはあるわけでしょ。で、2002年のサッカーのワールドカップを日韓で同時開催した時にも言われたみたいで、『ほえる犬は噛まない』は2000年だっけ。だから、韓国の犬を食う習慣に対する冷たいまなざしっていうのがあって、なおかつそれを映画でやるっていうのは、この人はなんかあるんだなって思うけどね。それがあってこの映画はもうちょっと受け入れられないんじゃないの。
井上:ああ、なるほどね。韓国の人に犬を食べるの?って聞いたら、それは、北の人ねって言う。それは北朝鮮ということではなくて朝鮮半島の北の方の人で、日本でも新大久保で犬料理を出している店があるけど、やっぱり延辺料理の店なんですよ。だから、いまは韓国のなかでも犬を食う人って差別的に見られているんじゃないですかね。そんなメジャーじゃないと思いますよ。
荒井:そう? 2006年の調査だと韓国で200万頭の犬が食べられたって出てたよ。
井上:荒井さん、今日は、そんなに事前に勉強しているんだ(笑)。マジ、韓国で?
荒井:2008年のソウル市内で犬を食わせる店が530軒だって。
(後編に続く)
◇構成/高崎俊夫
◆劇場情報 このトークライブが行われたのは「高田世界館」です(於・2020年7月11日)。新潟県上越市本町6-4-21(http://takadasekaikan.com/)
【プロフィール】
●荒井晴彦/1947年、東京都出身。季刊誌『映画芸術』編集・発行人。若松プロの助監督を経て、1977年『新宿乱れ街 いくまで待って』で脚本家デビュー。以降、『赫い髪の女』(1979・神代辰巳監督)、『キャバレー日記』(1982・根岸吉太郎監督)など日活ロマンポルノの名作の脚本を一筆。以降、日本を代表する脚本家として活躍。『Wの悲劇』(1984・澤井信一郎監督)、『リボルバー』(1988・藤田敏八監督)、『ヴァイブレータ』(2003・廣木隆一監督)、『大鹿村騒動記』(2011・阪本順治監督)、『共喰い』(2013・青山真治監督)の5作品でキネマ旬報脚本賞受賞。他の脚本担当作品として『嗚呼!おんなたち猥歌』(1981・神代辰巳監督)、『遠雷』(1981・根岸吉太郎監督)、『探偵物語』(1983・根岸吉太郎監督)など多数。また監督・脚本作品として『身も心も』(1997)、『この国の空』(2015)、『火口のふたり』(2019・キネマ旬報ベストテン・日本映画第1位)がある。
●森達也/1956年、広島県出身。立教大学在学中に映画サークルに所属し、テレビ番組制作会社を経てフリーに。地下鉄サリン事件と他のオウム信者たちを描いた『A』(1998)は、ベルリン国際映画祭など多数の海外映画祭でも上映され世界的に大きな話題となった。続く『A2』(2001)で山形国際ドキュメンタリー映画祭特別賞・市民賞を受賞。は東日本大震災後の被災地で撮影された『311』(2011)を綿井健陽、松林要樹、安岡卓治と共同監督。2016年にはゴーストライター騒動をテーマとする映画『Fake』を発表した。最新作は『新聞記者』(2019・キネマ旬報ベストテン・文化映画第1位)。
●白石和彌/1974年、北海道出身。中村幻児監督主催の映像塾に参加。以降、若松孝二監督に師事し、『明日なき街角』(1997)、『完全なる飼育 赤い殺意』(2004)、『17歳の風景 少年は何を見たのか』(2005)などの若松作品で助監督を務める。2010年『ロストパラダイス・イン・トーキョー』で長編デビュー。2013年、ノンフィクションベストセラーを原作とした映画『凶悪』が、第38回報知映画賞監督賞、第37回日本アカデミー賞優秀監督賞・脚本賞などを受賞。その他の主な監督作品に、『日本で一番悪い奴ら』(2016)、『牝猫たち』(2017)、『彼女がその名を知らない鳥たち』(2017)、『サニー/32』(2018)、『孤狼の血』(2018)、『止められるか、俺たちを』(2018)、『麻雀放浪記2020』(2019)、『凪待ち』(2019)など。
●井上淳一/1965年、愛知県出身。大学入学と同時に若松孝二監督に師事し、若松プロ作品に助監督として参加。1990年、『パンツの穴・ムケそでムケないイチゴたち』で監督デビュー。その後、荒井晴彦氏に師事。脚本家として『くノ一忍法帖・柳生外伝』(1998・小沢仁志監督)『アジアの純真』(2011・片嶋一貴監督)『あいときぼうのまち』(2014・菅乃廣監督)などの脚本を執筆。『戦争と一人の女』(2013)で監督再デビュー。慶州国際映画祭、トリノ国際映画祭ほか、数々の海外映画祭に招待される。ドキュメンタリー『大地を受け継ぐ』(2016)を監督後、白石和彌監督の『止められるか、俺たちを』で脚本を執筆。昨年、監督作『誰がために憲法はある』を発表。