プロ野球もシーズン終盤。タイトル争いも盛り上がりを見せている。そこで、記憶に残る首位打者争いを振り返る──。
1981年プロ野球ペナントレース終盤、3割5分7厘でシーズンを終えた巨人の篠塚利夫(現・和典)に立ちはだかったのが阪神の藤田平。残り2試合で篠塚を2厘上回っていたが、シーズン途中に欠場したため規定打席に5打席足りなかった。出場を余儀なくされた藤田は最終戦でヒットを放って首位打者となった。当時の真相を藤田氏本人が明かす。
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チーム内に流行した結膜炎の影響で20試合ほど欠場し、最終戦のダブルヘッダーで規定打席にギリギリ到達する状況でした。
しかし出場だけではダメ。ダブルヘッダーで5打席立てば規定打数に届くけど、首位打者になるには、5打席でヒット1本と四球がひとつ必要な状況でした。
マスコミが騒いで相当な重圧がかかりましたが、第1試合の最初の打席でセンター前にヒットを打って気が楽になり、4打席目に四球を選びました。第2試合はヒットでもアウトでもよかったので、1度だけバッターボックスに立ち、規定打席に到達したらすぐベンチに下がった。
こんなチャンスは二度とないと思っていたので、何としてもタイトルを取りたかった。
幸運だったのは、最後の相手が大洋だったこと。もし相手が巨人だったら、篠塚に追いつけなかったかもしれない。この年は巨人戦が早い段階で終了していたので、タイトル獲得の追い風になりました。
※週刊ポスト2020年11月6・13日号