開幕が3か月遅れた今年のプロ野球も、いよいよシーズンは残りわずかになり、ポストシーズンに関わらない球団は早くもストーブリーグに突入している。巨人の独走を許した阪神タイガースは、福留孝介や藤川球児らベテランがチームを去ることが決まっており、新しいチーム作りが動き出している。
ベンチだけでなく、揚塩健治・球団社長がチーム内でコロナ感染が相次いだ責任を取って辞任することになり、フロントの大改革も同時に進むことになった。この社長辞任については、親会社である阪急阪神ホールディングスの角和夫・代表取締役会長グループCEOの鶴の一声で決まったと見られており、すわ「阪急がついにタイガースの経営に乗り出してきた」と球界内外で注目の的になっている。
阪急はもともと「阪急ブレーブス」を所有し、一時期は黄金時代を築いてパ・リーグの雄だったこともある。再び球団経営に意欲を見せるのもおかしくないが、阪急と阪神は本業の電鉄でも野球でも長くライバル関係だっただけに、阪神電鉄サイドも阪神ファンも心穏やかではない。『週刊ポスト』(11月6日発売号)では、そのライバル史をエピソードと図解で詳しく特集しているが、野球界においても、両者の火花を散らす歴史は枚挙にいとまがない。
そもそも両者の野球対決が高校野球から始まったことは、今のファンはあまり知らないのではないか。今では高校野球の全国大会といえば「甲子園」だが、1915年の第1回大会と翌年の第2回大会は阪急宝塚線沿線の豊中球場で行われた。
「豊中球場は観客席もない空き地みたいな球場だった。そこに目を付けた阪神は、主催の朝日新聞を口説いて阪神沿線の鳴尾の競馬場の中に球場を2つ作るという約束で、第3回大会から会場を横取りしてしまった。観客が押し寄せて収容しきれなくなると、兵庫県から土地の払い下げを受けて5万人収容の甲子園球場を作り、第10回大会からそこで開催した。ついでに言うと、毎日新聞主催のセンバツ大会も、第2回大会から甲子園に引っ張ってくることに成功し、“高校野球といえば甲子園”というブランドを確立した。その当時の阪急では、高校野球の発祥は阪神ではなく自分たちだという自負があり、阪神の横取りに地団駄を踏んでいたらしい」(在阪スポーツ紙編集委員)
プロ野球の草創期にも、阪急と阪神は激しく対立した。
「日本のプロ野球の前身は、1921年、東京・芝浦で始まった『日本運動協会』だった。入場料でチーム運営するという画期的な取り組みだったが、関東大震災(1923年)の影響であえなく解散。それを直後の1924年に『宝塚運動協会』として復活させたのが、阪急創始者の小林一三・社長だった。当時、小林氏は関西で日本初のプロ球団を作ろうとして、阪神、京阪、近鉄(当時は大阪鉄道)に声をかけたが、阪神が話に乗らなかったことで失敗してしまう。